笑いとユーモアの教育論
知識・教材を生かす力
子供の自己肯定感を高める
笑いやユーモア感覚を持つことの医学的な効果について、国内外での認知が広がっている。その先駆的人物である著名なジャーナリストのノーマン・カズンズは、著書「笑いと治癒力」の中で、笑いの効用と自身の難病克服を語っている。また、最近では、筑波大学の村上和雄名誉教授による研究などにより、人間の持つ自然治癒力が笑いによって活性化すること、笑うことで人間の遺伝子の働きがプラス方向に変化することを解明している。
このように、笑いやユーモア感覚が医学的見地から積極的に評価される一方で、それらを教育的見地から捉えた研究はあまり目にしない。今日、学校教育でのコミュニケーション能力が強く求められているが、それは取りも直さず教師自身のコミュニケーション能力が問われていることでもある。おそらく、そのことと笑いやユーモア感覚は非常に結びついているのではないだろうか。本稿では、笑いやユーモア感覚の教育的意義について三つの観点から考えてみたい。
一つ目は、教師という権威が効かなくなっている現実である。昭和50年代ころから保護者の教師に対する「権威を権威として承認する無意識の合意」が失われてきている。学校だけがその村や町の唯一の文化センター的存在だった時代には、子どもが学校に通い、教師の言うことを聞き、一生懸命勉強して貧困を脱したいという倫理的気風は守られていた。
しかし、生活の豊かさを手にし、教師の専門性以上の学歴を持った保護者が溢れ、テレビタレントから立ち振る舞いを学ぼうとする大衆文化社会になった今日、教師に対して求めることが異なってきたのだ。ひと頃までの学校教育的価値であった真面目さや一生懸命さとともに、子どもたちは学校や教師に楽しさや面白さを求めているのである。
このように、時代のモードと子どもたちの要請に応えるためには、笑いやユーモア感覚を備えた教師のコミュニケーションが効果的なのは言うまでもない。もちろん、そのことは子どもに迎合することとは次元の違う話である。
二つ目は、大学の教員にありがちなことであるが、専門家が必ずしもよい講義を行うとは限らないことである。それは、いい選手が必ずしもいい監督にならないのと似ている。良質の知識や技能を持ち、良質の資料や教材がその人に備わっていても、それを駆使できる表現力や意思疎通というコミュニケーション能力が弱ければ、講義の中で知識と教材は生きたものに変容しない。今日、学校教育のうねりが、ティーチング型の知識伝達式教育から、コーチング型の質問型コミュニケーション教育にシフトしつつあることを十分に認識しなければならない。
さらに付け加えるならば、学校での私語の増加の原因として、少子化や受験戦争により、子どもたちにとっての「私=遊ぶところ」の場が消滅し、学校という「公=学ぶところ」の場に侵入したためという見方がある。このような実態を教師が理解するならば、多少の私語は受け止め、楽しい雰囲気を継続させ、子どもたちを集中させる能力がいっそう必要となる。その意味で、笑いやユーモア感覚のある授業は、教育の新しい可能性を開くのではないだろうか。
最後の三つ目は、日本の子どもたちの自己肯定感の低さと笑いやユーモア感覚の関係である。ユニセフなどの国際調査を見ると、日本の子どもたちの自己肯定感の低さは群を抜いている。そして、年々深刻さが増している傾向にある。これにはいろいろな要因が考えられるが、「こうあるべきだ」という社会の常識に照らしてみて、そうではない自分に敗北感やストレスを感じていることが大きいように思う。常識を身に纏(まと)った周囲の目と期待が強ければ強いほど、それに応えられない自分への否定感も強くなる。日本文化の底流には常に他者からの評価によって生きる側面が拭いきれない。
それに対する一つの処方箋として、笑いやユーモア感覚があるのではないだろうか。考えてみると、笑いやユーモアは、常識を逸脱するところから生まれる。たとえば、上着が背広で、下が袴の男性を見ると笑いが起こる。本人が真面目であればあるほど、そのずれが笑いを誘う。常識からずれているからである。チャップリンの映画にも常識を逸脱するところから生まれる笑いやユーモアが多い。
自己肯定感が低いということは、常識や固定観念に汲々として自分を貶(おとし)めている姿でもある。先ほどの上下が背広と袴の人間が真面目に歩いているようなものである。そのような自分を相対化して、別の視点で自分を眺めたとき、そこに可笑しさを感じたならしめたものである。このように考えると、自己肯定感を高めるために、笑いやユーモア感覚が重要な役目を果たすことが分かるのではないだろうか。
さて、「ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである」というドイツのユーモア定義がある。この世の苦しみや人生の悲しみを直視した上で、「にもかかわらず」笑いを忘れない人間こそ成熟した人物であり、そのような教育こそ今日求められているように思うのである。
(かとう・たかし)