築地から豊洲へ、日本の食文化支えた83年


 「日本の台所」の東京・築地市場が83年の歴史に幕を閉じた。最終営業を終えた卸業者や仲卸業者ら築地市場と歳月を共にした関係者は万感の思いで別れを告げ、移転先の豊洲市場への引っ越し作業を開始した。

2年延期の弊害大きく

 築地市場の歴史は江戸時代にできた日本橋の魚河岸に遡(さかのぼ)る。関東大震災をきっかけに魚河岸は築地に移転。臨時営業の時期を経て1935年に現在の市場が開場した。水産物の扱いや、そこで働く人々の職人的な技量や心意気など江戸前の伝統は戦後も脈々と受け継がれてきた。

 1日当たりの取扱量は2016年の統計で、水産物が約480種、1540㌧、青果物が約270種、990㌧に上る。水産物に関しては国内の中央卸売市場の売買量の4分の1を占め、「築地ブランド」として知られる世界最大級の市場である。

 この築地ブランドは、食材の目利きに長け、長年の経験に裏打ちされた取り扱い方を熟知した専門業者や職人のプロ意識に支えられてきた。

 日本食の特徴は鮮度そして素材そのものの味を命とするところにある。この意味で、築地は日本の食文化を支える拠点であった。世界的な魚食ブーム、日本食人気を背景に築地ブランドは世界に知られ、外国人の観光スポットの一つにもなり、世界の「ツキジ」となった。

 だが施設の老朽化から01年、当時の石原慎太郎東京都知事が正式に豊洲移転を決定した。鮮度管理や流通のスピードアップなど、今日の要請に応えるための選択だった。安全性や鮮度が落ちては、築地ブランドを維持することはできない。

 豊洲への移転が2年近くも遅れたのは、地下水から基準値を上回る有害物質が検出されたことと、それへの対応の遅れによる。移転反対運動など、政治的な駆け引きの材料にされた面もあった。小池百合子都知事は就任早々、土壌汚染問題を理由に移転延期を発表。この夏、ようやく専門家の検証をもとに「安全宣言」を出した。

 移転延期の弊害は大きい。予定外の出費がかさみ、20年東京五輪・パラリンピックで選手らの輸送道路となる環状2号線は、市場解体が間に合わないため、開会式までに4車線の全線開通を予定していたが、2車線での暫定開通となる。

 政府は今後、農水産物の海外輸出に一層力を入れていく方針だ。農水産物の日本ブランド確立のために、食品の安全性と質の高さを今後も維持していく必要がある。豊洲がその新しい拠点とならなければならない。

 築地市場は11日から解体工事が始まる。20年2月までに工事を終え、跡地は五輪のための駐車場になる。築地の住民たちには、大量のネズミの拡散を心配する声もある。都知事はこれ以上の混乱が起きないように責任を持って対処してもらいたい。

スムーズな移転の実現を

 引っ越し作業は24時間体制で10日夜まで続く。荷物は大型冷蔵庫や冷凍庫、水槽、事務用パソコンなど多岐にわたり、都は2㌧トラックで約5300台分と見積もっている。都と市場関係者の協力によってスムーズな移転を実現してもらいたい。