始動した「教科 道徳」に一言
NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之
簡単ではない教育評価
模範解答示せば知的活動衰退
わが国の学校における道徳教育は、2015年3月の『学習指導要領』の一部改正により従来の「道徳教育」は「学校の教育活動全体を通じて行うもの」となり「教科外活動」であったものを「特別の教科 道徳」となり「教科」へ格上げした。これに伴い一般的な教科目と同じように「検定教科書」の使用が義務付けられた。
その教科書の内容は「個性の伸長」「相互理解、寛容」「公正、公平、社会正義」「国際理解、国際親善」「よりよく生きる喜び」などであり、その方法論は、問題解決的な学習や体験的な学習などを取り入れるとされ、評価については、数値評価ではなく児童生徒の道徳性に関わる成長の様子を把握し、文章表記の評価をすることなどが、正式に決定されたのである。
児童生徒の人格の基礎となる「道徳性」を養うという重要な役割があるとの基本認識の下に発足を見た「道徳教育」は、教育現場に移されるに伴い、早くも、幾つかの問題点に直面しているのだ。
その第一は、「学校」という限られた場の中で「道徳性」の育成を成し得るのか。評価の基準が明確でない価値観、人生観を担当する教師が判定できるのか。悩ましい問題だ。
かつて、立川市内の音楽教師が「私には音楽性、芸術性を評価することはできない」として生徒全員の評価を「3」として大いに話題になったことを思い出す。
絵画、音楽、書道その他、主観に大きく依存する科目や今回の教科道徳は、「人間の内面」「価値観」に至る領域と深く関わり合う。これを評価しなければならない先生の悩みは計り知れない。
しかも、「生活に密着した体験的な学習」を採用しようとしているようだが、現実生活は多種多様な価値が同居している。保護者の人生観や社会通念(常識)も一様ではない。多様な価値判断が共存している現実生活から組み立てる、「何を、どのように指導したらよいのか」判断は分かれる。当事者になって考えれば分かるように、美意識や道徳性は一元的でない。このような教科目の教育評価は、「上」が言うほど生易しいことではない。
確かに、長い間日本では「教育といえば魂の育成」「教育とは道徳教育」を意味してきた。「修身」の授業は「校長」か「教頭」が担当した例が多い。人間形成・教育にとって最も大事な授業科目だと認められてきた。
道徳教育の根幹は、孔子を開祖とする思考・信仰の体系である儒教が支えてきた。特に「道徳性の育成」にとって重要視されていたのが『五条の徳』であった。
五条の徳とは、「人としての道、守るべき徳」を、『仁義礼智信』の5項目に整理したものである。すなわち「仁」は「仁徳のある人間をめざす」最も重要な徳目であり、「義」は道理に従いためらうことなく決断する力だとした。「礼」は人が人として行うべき行動の美学で、仁と義を根幹に置いた行動であるとした。「智」とは物の道理を知り、正しい判断を下すことのできる能力だといい、「信」とは欺かないこと、偽らないこと、忠実であることだという。確かに非の打ち所はない。
今回、「道徳教育の教科書」は検定であって国定ではないから複数出版された。各地方公共団体の教育委員会の「道徳教育の手引き」を深読みしてみると、時代を超え、社会の変動を超えた、普遍的(不変的)価値を根底に置こうとしている。現代風の価値を挿入してはいるが、「五条の徳の精神」で貫かれていると評せざるを得ない。
「生徒の発言や討論を採用する」と言っているが、「人を愛し思いやること」「正義を貫く心」「礼儀礼節を尊ぶ」、さらには現代風の「国際秩序を重んじよう」「世界平和を希求しよう」などの普遍的な模範解答、立派な正しい、本当の価値が定まっているというのであれば、討論や自由発言は意味がない。これでは躍動感が起こらないはずだ。
「教育活動一般」が最も恐れ忌み嫌うことは、不活発な、自動力のない、不消化な知識の保持に終わることだ。「絶対確かな模範解答を示された途端に知的活動を衰退させる」。これが教育学の原則だ。
教育活動で求めることは「新しい己の再発見」や「常に厳しく、疑問を継続的に持ち続ける」など「限りない自己成長」を求めるように「謙虚に自分自身を見詰める」姿勢を育成することなのだ。「クイズ王」を世に送り出す作業ではないのだ。
蛇足めくが、『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社新書)とケント・ギルバート氏が表明したことや、「中国に道徳なく韓国に儒教なし」と指摘した諸氏の意見が頭をよぎる。彼らが指摘するように、儒教の影響を強く受けた国に共通することは、己の確立した路線こそ真であり善なのだと豪語する、強烈な自己主張を繰り返すがために「人類の歴史をうらみ、近代的、科学的な思考方法を忌み嫌っている」としか見えない。わが国は、この轍を踏むべきではない。
儒教道徳の呪縛を脱して「最低の道徳である法律」を青少年にも熟知させ、「法律」が生活を守っている現実を、早い段階から体験させる必要があるのではあるまいか。
(くぼた・のぶゆき)