特攻の歴史語り継ぐ 台湾・新竹の地元有志

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 太平洋戦争末期に旧日本軍の特攻隊が出撃したのは日本だけではない。台湾の航空基地からも特攻隊員が飛び立ち、散華した。台北から約60キロ離れた台湾北西部の新竹市には、特攻隊員が出撃前夜に「最後の晩餐(ばんさん)」をしたとされる料亭などが残っており、台湾人の地元有志は「特攻隊の歴史を語り継ぎたい」と話している。(編集委員・早川俊行)

「最後の晩餐」の料亭など
日本統治時代遺産 保存に尽力

 日本統治時代の1916年に造られ、100年が経過した今も新竹市民の憩いの場となっている「新竹公園」。園内に広がる池のほとりには、料亭や軍人官舎として使われた日本の家屋が数軒立っている。

曽國忠さん

曽國忠さん

 「料亭のことを日本人に直接お話できるのは本当に感慨深い」

 現在、改修工事が行われている料亭の前で、その歴史について説明してくれたのは、新竹市に残る日本統治時代の文化遺産保護に取り組む曽國忠さん(65)だ。1931年に建てられたこの建物は今、「湖畔料亭」の名で文化展覧スペースとして利用されている。

 曽さんはテレビ局に勤務していた時、聞き取り調査を行った複数の台湾人元日本兵を通じ、特攻隊員が出撃前夜に料亭を利用していたことを知った。新竹市内には台湾軍の空軍基地があるが、かつては日本軍の航空基地だった。特攻隊員たちは最後の宴を楽しんだ後、ここから出撃していったわけだ。

 曽さんによると、特攻隊員たちの中には宴の後、料亭から少し離れたところにある「遊楽館」という映画館で、最後の映画を観る者もいたという。この映画館は台湾で初めて全館フルエアコンシステムが採用された豪華な造りで、今は「影像博物館」として当時の様子を伝えている。

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 新竹公園内には、日本の皇族や高官が新竹を訪れた際に宿泊した接待所や動物園が残っている。接待所は現在、ガラス工芸博物館として使われ、動物園は改修中だが、現存する台湾の動物園の中では最も歴史が古く、象とライオンの彫像が来場者を迎える門柱は当時のままだ。

 新竹には日本統治時代の建造物が多く残っており、今も使われている新竹市政府庁舎や新竹駅などがそうだ。新竹駅は日本人建築家の松ヶ崎萬長が設計し、1913年に完成したもので、現役の駅舎としては最古。翌年完成したJR東京駅とは、姉妹駅関係を結んでいる。

 ただ、新竹はハイテク企業が集積する産業都市として発展してきた経緯もあり、日本統治時代の文化遺産を観光資源として活用する取り組みは他の都市と比べると遅れている。本紙のインタビューに応じた沈慧虹・新竹市副市長も「新竹はハイテク企業で働く日本人は多いが、観光客は少ない」と認めた上で、「現在整備中のものも含め日本統治時代の遺産を発信していきたい」と語った。

湖畔料亭

特攻隊員が出撃前夜に最後の宴を楽しんだとされる新竹公園の「湖畔料亭」

 新竹市長の顧問的立場にある曽さんは、特攻隊の歴史を含めた日本統治時代の文化遺産を保護するよう市に働き掛けている。勇猛なことで知られた先住民の高砂族をはじめ台湾人も特攻任務で命を捧(ささ)げており、特攻隊の歴史を後世に伝えることは台湾の歴史を語り継ぐことだと、曽さんは信じるからだ。

 戦後廃社になった新竹神社は、日清戦争で台湾が日本に割譲された後、台湾に上陸した日本軍の総大将だった北白川宮能久親王が祭られていた。神社跡の裏山は現在、高校の敷地になっているが、この場所に能久親王の息子、成久王が1903年に植えた黒松は今も残っている。能久親王の玄孫に当たる作家の竹田恒泰氏は2013年にここを訪れ、新竹市長と共に黒松の植樹を行った。

 曽さんは、湖畔料亭など新竹公園リニューアルの除幕式に「竹田氏をもう一度お招きできれば」と話している。