ポーランドのユダヤ軽騎兵連隊

獨協大学教授 佐藤 唯行

国家消滅を防ぐため戦う
友愛・団結の象徴として英雄に

佐藤 唯行

獨協大学教授 佐藤 唯行

 1793年、ポーランドは国家消滅の瀬戸際にあった。露・プロセインが結託して領土を奪わんと攻め寄せて来たからだ。所謂(いわゆる)第2次ポーランド分割だ。この時、分割列強と対決し、国土防衛の民衆蜂起を呼び掛けたのが愛国者コシチューシコ将軍であった。馳(は)せ参じた蜂起勢の中には多くのユダヤ人がいた。当時のポーランドは総人口の1割強、欧州最大、90万のユダヤ人口を擁する国だったからだ。

「正規軍」として初参戦

 14世紀、大王カジミェシ3世が招いて以来、ポーランド経済を支えてきたユダヤ人。彼らにとっても国家消滅は他人事(ひとごと)ではなかった。被差別身分とはいえ、国王の保護の下、恩恵も受けていたからだ。蜂起直後、コシチューシコはユダヤ人に塹壕(ざんごう)構築等の後方支援のみを委ねていた。民衆の間で根強かった反ユダヤ感情に配慮せざるを得なかったからだ。

 けれど数に勝る露軍を前に、ユダヤ人の戦闘参加を拒む余裕はもはやなくなってしまったのだ。この時、ユダヤ軽騎兵連隊設立を進言したのが、ユダヤ商人ベレク・ヨゼレヴィチだ。彼とコシチューシコを結び付けたものは、ユダヤ人解放に好意的な仏革命思想だった。後進国ポーランドにおいても、知識人を中心に感化を受ける者が増えていたのだ。

 蜂起軍総司令官コシチューシコにより設立を許され、隊長に任命されたヨゼレヴィチ。同胞に向けて「獅子(しし)や豹(ひょう)の如(ごと)く外敵露軍を追い払う戦いに加わろう」と檄(げき)を飛ばした。呼び掛けに応え集結した500人のユダヤ青年は、戦意こそ旺盛だが訓練さえ初めての素人集団だった。

 ユダヤの軍人登用を法的に長らく禁じてきた欧州社会にあって、ヨゼレヴィチとその仲間が練度は別として、短期間に軽騎兵連隊を組織できた訳は、馬の仲買業がポーランド・ユダヤの代表的職種だったからだ。大量の乗馬を供給できる体制が整っており、何よりも常日頃、馬の扱いに慣れた者が多かったのだ。実はヨゼレヴィチも馬の仲買業者だったのだ。

 こうして編成された500人のユダヤ軽騎兵連隊は、ワルシャワ防衛戦の一翼を担い布陣したが、相手が悪過ぎた。百戦錬磨のコサック騎兵隊だったからだ。激戦の末、生き残ったのはヨゼレヴィチ他20人にすぎなかった。

 ユダヤ軽騎兵連隊の命脈は初陣で絶たれてしまったのだ。けれどユダヤ民族史上におけるその歴史的意義は色褪(あ)せることはなかった。ユダヤの「正規軍」による戦闘参加を欧州史上初めて実現させた画期的な部隊となったからだ。

 さて蜂起失敗後、多くは国外退去の憂き目に遭った。ヨゼレヴィチも生き残った部下と共に渡仏し、ナポレオン配下の亡命ポーランド人騎兵連隊に入隊。各地を転戦しレジオンドヌール勲章を受けるまでに武功を挙げたのだ。ワルシャワ防衛戦では多くの部下を死なせてしまった彼ではあったが、ナポレオン軍に加わってからは傑出した騎兵指揮官へと成長を遂げたのだ。

 ナポレオンの後ろ盾の下、ワルシャワ大公国が樹立されると、彼は祖国へ戻り騎兵少佐となった。大公国は「傀儡(かいらい)国家」とはいえ、少なからぬポーランド人がロシア支配から自分たちを解放してくれる「救世主」としてナポレオンに期待していたのだ。

 1809年、分割列強の一角、オーストリア軍が大公国へ攻め寄せて来た。数に勝る墺軍との激戦の最中、ヨゼレヴィチは壮絶な戦死を遂げてしまう。しかしそれ故にこそポーランド人とユダヤとの友愛と団結の象徴と見なされ、双方の人々にとり英雄となったのだ。数多くのポーランド軍歌の中でその武勇は称(たた)えられ、生涯は小説にもなったほどだ。

息子が憂国の志を継承

 憂国の志は息子ヨゼフに受け継がれた。1831年、ポーランドで対露反乱が勃発するや、850人のユダヤ民兵隊を組織し戦った。衆寡敵せず、反乱失敗後は英国へ亡命し、文筆活動に入るのであった。

(さとう・ただゆき)