中世英国のユダヤ女金貸し

獨協大学教授 佐藤 唯行

再婚相手の遺産で富蓄積
国王と親密関係築いた未亡人

佐藤 唯行

獨協大学教授 佐藤 唯行

 「女金貸し」と聞くと「難波金融伝」「闇金ウシジマくん」の登場人物を思い浮かべる方もおられるだろう。実はユダヤ史学界でも昔から注目されてきたのだ。筆者が関心を寄せる中世英国でも、ユダヤ女金貸しは金融業で無視し難い役割を演じてきた。

 ユダヤ金貸しの資金力は国王へ納める特別税の分担額から推測できる。十字軍遠征の帰路、捕虜となったリチャード1世を解放するための身代金財源として徴収された1194年の税を例に取ると、女金貸しは担税者数の9%、担税額の8%を占めているのだ。247人のユダヤ金貸しが計5千マークを課されたが、女性の首位は全体の17位にランクされている。

高い法的・経済的自立性

 彼女らの中には未婚者や亭主持ちもいた。けれど最も富裕な女金貸しは未亡人だった。大金貸しだった旦那の死後、事業を継承したのだ。彼女らは自分より年長で(早く死ぬ確率が高いから)裕福なユダヤ人男性の中から慎重に再婚相手を選び、再婚相手が死亡するたびに(特に複数回)遺産を手に入れ、富を蓄積していったのだ。

 中世英国最大の女金貸し、ウィンチェスターのリコリシアもそうした一人だ。再婚相手、オックスフォードのダビデは英国で6番目に金持ちのユダヤ人だったが、彼女と再婚して2年で病死してしまう。

 彼女はダビデが残した1万5千マークを得たことで「英国一金持ちのユダヤ女性」となったのだ。相続上納金として3分の1を国王に納める決まりなので、手取りは1万マークだ。当時、キリスト教徒商人最上層の平均年収は300マークなので、彼女が得た遺産はその33年分に相当した。

 業務に深く関わり始めるのはダビデの病死前からだった。返済を受け取るだけでなく、厄介な客に対しては返済条件を緩和する交渉も自身でこなしている。彼女が関わった土地抵当をめぐる訴訟記録を編纂(へんさん)した法制史家J・M・リッグは「鮮やかな手並みの訴訟当事者だった」と評している。

 史料から浮かび上がる彼女の姿からは、ユダヤ女性の法的・経済的自立性の高さが確認できる。亭主持ちのキリスト教徒女性の場合、夫の同意なしに単独で訴訟を起こしたり、契約書を作成することは困難だった。

 しかし、リコリシアは夫の保護監督下に置かれておらず、融資や訴訟を行う際、夫の同意を必要としていなかったのだ。慣習法(コモンロー)に縛られたキリスト教徒女性が置かれた「夫の財産のような立場」と異なり、主体的にビジネスを行う権限を行使できたのだ。

 ダビデの死後、女家長となった彼女は息子や配下を率い、南英全域で金融活動を展開した。1275年には14州を管轄する7人の州長官が、彼女の債権回収を手伝うよう国王から命令を受けている。国王ヘンリ3世との間に親密な関係を築くことに成功していたからだ。ヘンリ3世が王宮にいる時は足繁く出入りし、不在の時でも王族や寵臣(ちょうしん)との間に築いたビジネス利害を調整するために訪れたのだ。

名声得るも悲惨な最期

 返済不能に陥った債務者から取り上げた土地抵当の換金化が必要な彼女にとり、羽振りの良い寵臣たちは格好の転売相手だった。一方、所領拡大に余念がない寵臣たちにとっても、彼女はおいしい話を持って来る歓迎すべき来客だった。王宮で顔が利く彼女を英国ユダヤ社会は頼りにした。リコリシアを王宮における自分たちの執(と)り成(な)し役と見なしたからだ。

 3男1女のうち、男子は助手として修業を積んだ後、皆、有力金貸しとして独立した。子供らを無事育て上げ、富と名声を得たリコリシアだったが、最期は悲惨だった。1277年、ウィンチェスターのユダヤ人街にある自宅から彼女と召使い女の遺体が発見されたのだ。

 心臓に達する刺し傷から強盗の仕業と推測された。訃報(ふほう)は遠くドイツまで伝わり、かの地の年代記にも言及された。同年、別の女金貸しも謀殺されている。人口3千人規模の英国ユダヤ社会で年に2人も殺された勘定となる。

 彼女らの非業の死はユダヤ金貸し、とりわけ女性の場合、その人生が常に危険と隣り合わせであった事実を我々に伝えているのだ。

(さとう・ただゆき)