「ベルリンの壁」崩壊から30年
日本対外文化協会理事 中澤 孝之
「分断」克服の可能性示す
欧州「共通の家」いまだ未完成
東西冷戦の象徴とも言うべき「ベルリンの壁」(1961年建設)が崩壊して、今年11月9日で満30年を迎えた。ベルリンではコンサートや映画上映会、講演など200以上のさまざまな記念イベントが11月4日から10日まで、分断の象徴だったブランデンブルク門を中心に市内各地で開催されたと報じられた。ベルリン市民や外国の賓客、観光客などが、89年末の冷戦終結宣言や90年の東西ドイツ統一につながる歴史的な転機となった壁の崩壊を盛大に祝った。
ビザを取るため東側へ
「ベルリンの壁」と言えば、筆者に忘れ難い思い出がある。2回目のモスクワ特派員(支局長)時代。80年代の初めにポーランドの自主管理労組「連帯」によるストライキ騒ぎが各地で起きた。一時はソ連の介入もあるのではと緊張が高まった。そのころ、取材のためワルシャワに飛べとの社命が届いた。ところがモスクワのポーランド大使館は入国ビザを発給しないという。そこで、どこの国のポーランド大使館に行けばビザを入手できるかがモスクワ駐在の記者たちの関心事だった。
結局、東ドイツならビザが出るとの情報が駆け巡った。普段はあまり縁のない東独大使館で入国ビザを取り、Y紙のH記者と連れ立って空路西ベルリンへ。そして、壁で仕切られた東西ベルリンの境界にある検問所「チェックポイント・チャーリー(通称チャーリー・ポイント)」を通った。東側係官が所持品を全部卓上に置くよう命令(帰途の際も同様)。恐る恐る、東ベルリンに足を踏み入れた。
市内の崩れかけたような建物のあちこちに銃弾の跡が生々しく残っていたのが印象的だった。何とかポーランド大使館を探し当て、簡単に入国ビザをもらった。早々に目的を果たしたので、ついでにと有名なベルガモン美術館を訪れた。ナチスが運び込んだという大小さまざまなエジプトの遺産を見物したが、長居は無用と即日、再びチャーリー・ポイントへ戻った。不気味に静まった陰気な市内の空気を脱し、活気に溢(あふ)れた西ベルリンに引き返して、一息ついた。そして、壁の西側にしつらえられた展望台に上った。そこから東側を改めて見下ろすと、銃を片手に監視兵たちが三々五々、境界近くの緩衝地帯をぶらついているのが見えた。
またポイントの一角には、東の市民たちが西へ決死の脱出をした方法の説明文や写真、道具などを展示した小屋があったので、立ち寄った。東の兵士に撃たれて壁近くで亡くなった東の市民たちの墓標のようなものもあったと記憶している。ベルリンを東西に分けたその頑強なコンクリートの壁が、まさか10年足らずのうちに無くなるとは、想像だにしなかった。
閑話休題。ドイツのアンゲラ・メルケル現首相(65)は東ベルリンの壁の近くで暮らしていたという。同首相は10月に行った演説で、「壁崩壊は自分にとって幸せの瞬間だった」と述べた。 そのメルケル首相は11月9日、壁の跡地で開かれた記念式典で演説し、「壁の崩壊は、人々を分断する壁がどれだけ高くても『打ち破れる』ことを示した」と訴えた。また、同首相は「(西ベルリンでの)自由を望み、(逃亡時に)壁際で殺された人々を私は忘れない」と述べるとともに、「東西分断を経験した欧州の人々は、自由と民主主義、人権の価値観を日々、守っていかなければならない」と主張した。
不干渉を貫き流血回避
一方、事実上、ベルリンの壁崩壊とドイツ統一をもたらし、冷戦終結の立役者でもあったミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領(88)は11月5日、モスクワの「ゴルバチョフ基金」でのベルリンの壁崩壊30周年記念の会合で、「30年前に人々は、欧州の分断が終わり、新たな平和、協力、創造の時代が訪れ、欧州は『共通の家』になると期待したが、完全には実現しなかった」と指摘。「壁や分断線のない新たな欧州をつくるため皆が力を合わせて闘うよう」訴えた。壁崩壊に不干渉を貫いたことについて、ゴルバチョフ氏は、11月4日放映の英BBC放送で、「出来事はドイツと欧州の一大事であり、流血は避けなければならなかった」と強調した。
(なかざわ・たかゆき)






