建国の父たちの宗教観 道徳・秩序の基盤と認識
米建国の理念はどこに(3)
米国の建国の父たちは、全員が敬虔なキリスト教徒だったわけではない。元タイム誌記者で大学教授のデービッド・エイクマン氏によると、彼らの宗教観は幅広く、献身的な福音派キリスト教徒から、神は最初に自然法則を定めただけで人格的存在ではないとする理神論者までいた。
1776年に採択された独立宣言には「全ての人は平等につくられ、創造主によって生命、自由、幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と明記された。「創造主(クリエーター)」という宗教色がやや薄められた表現が使われたのは、建国の父たちの幅広い宗教観を網羅する必要があったからだという。
それでも、エイクマン氏は「自由が神に与えられたものだという概念は、福音派や保守的なキリスト教徒に限られた考え方ではなかった。事実上、全ての建国の父たちがユダヤ・キリスト教を共和政体の自由の主要基盤であると信じていた」と指摘する。
建国の父たちの中で最も世俗的だったといわれるのが、独立宣言の起草者で第3代大統領のトーマス・ジェファーソンだ。ジェファーソンは理神論者で、イエスの処女降誕や奇跡、復活を作り話とみなすなど、キリスト教の教義自体には懐疑的だった。
だが、そんなジェファーソンも、「救い主」としてではなく「道徳の模範」としてのイエスの教えには共鳴していた。宗教を土台とする道徳の重要性を認識していたジェファーソンは「キリスト教的価値観を共有する社会を望んでいた。この価値観に同意する人々だけが善良な市民、自由な共和国に必要な美徳を持つと考えていた」(エイクマン氏)という。
独立宣言と合衆国憲法に署名した一人で、百ドル紙幣に描かれているベンジャミン・フランクリンも理神論者だった。ウィリアム・アンド・メアリー大学のデービッド・ホームズ名誉教授によると、フランクリンも「宗教は公衆道徳や社会秩序を促進することによって社会に利益をもたらすと理解していた」(著書『建国の父たちの信仰』)。
独立戦争下に開催された第2回大陸会議(植民地代表者による議会)は、断食と祈りの日を何度も設けるなど、神の導きを得ようと必死だった。だが、戦争が終結し、1787年に始まった憲法制定会議では切迫感が薄れ、神に対する意識が消え始めていた。この風潮を厳しく戒めたのがフランクリンだった。
当時81歳で憲法制定会議の代議員では最長老だったフランクリンは「私は長く生きてきた。長く生きれば生きるほど、人間の事象を司るのは神だという真実について、説得力のある証拠をより多く目の当たりにすることになる。神の助けがなければ、我々はバベルの塔以上の政治的建物は築けないだろう」と述べ、毎朝、神への祈りで会議を始めるべきだと訴えた。
第2代大統領のジョン・アダムズは、伝統的なキリスト教信仰を徐々に失い、イエスの神性を否定するユニテリアンとなるが、「社会の正しい行動の砦としてキリスト教信仰を擁護する姿勢は一貫していた」(エイクマン氏)という。
アダムズは大統領任期中、大陸会議時代に行われていた断食と祈りの日を2回宣言し、国民に神への懺悔を求めている。また、1798年の書簡では「我々の憲法は道徳的で宗教的な人々のためだけに作られた。それ以外のどの者たちの政府にも全く不適格なものだ」と書いており、米国をキリスト教国家と認識していたことがうかがえる。
建国の父たちが多様な背景を持つ国民を統合し、社会秩序を維持するために、キリスト教を土台とする道徳基準を重視していたことは間違いない。
(ワシントン・早川俊行、写真も)











