伝統を削り取る法廷 世俗的価値観を押し付け

米建国の理念はどこに(8)

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ワシントンにある米連邦最高裁判所(UPI)

 米国から建国以来の宗教的伝統を削り取る原動力となってきたのは、法廷と言っても過言ではない。

 例えば、連邦最高裁判所は1962年、ニューヨーク州の公立学校が毎日、始業時に生徒たちに祈祷文を唱和させていたことを、国教樹立を禁じた合衆国憲法修正第1条に違反するとの判決を下した。

 祈祷文の唱和は生徒たちのモラル低下を憂いて始められた試みであり、その文言も「全知全能の神よ、我らは汝により生きていることを感謝し、我らに、我らの父母に、我らの先生に、我らの国に汝の祝福がありますように」という、国教樹立につながるとは思えない無宗派的な内容だったにもかかわらずだ。

 この最高裁判決により、それまで米国ではごく当たり前だった公立学校での祈りが違憲となった。保守派団体「イーグル・フォーラム」のフィリス・シュラフリー会長は、米社会、特に公教育の現場が「神なき空間」へと急速に変化する転機となったのが、この判決であると指摘する。

 「この(最高裁判決の)瞬間、世俗主義という国家宗教が誕生したのだ。どの伝統的宗教よりもはるかに独善的な世俗主義という連邦宗教は、公の場にごくわずかでも神への忠誠を示す表現があれば、踏みつぶしてしまう」(著書『至高の権力』)

 最高裁は翌63年にも、公立学校で聖書を朗読させることを定めた州法に違憲判決を下している。

 これらの判決は、米史上最もリベラルな最高裁といわれる、アール・ウォーレン最高裁長官率いる「ウォーレン・コート」(53~69年)によって下された。だが、このウォーレン・コートを「急進的ではなかった」と見ているのが、他ならぬオバマ大統領である。

 オバマ氏はイリノイ州の上院議員だった2001年に、地元シカゴのラジオ局のインタビューで、次のような発言をしている。

 「最高裁は富の再分配の問題や社会の政治的、経済的公正という、より基本的な問題に取り組んだことはない。ウォーレン・コートは人々が特徴付けるほど急進的ではなかった。ウォーレン・コートは建国の父たちが憲法に課した根本的な制約を突き破れなかった」

 つまり、オバマ氏はリベラルな政策課題を実現する上で、建国の父たちが定めた憲法を「障害」(シュラフリー女史)と見なし、当時の社会常識を覆すリベラルな判決を下し続けたウォーレン・コートでさえ、その憲法解釈は不十分だったと捉えているのだ。

 オバマ氏はまた、2006年の著書で「憲法は固定的なものではなく、生きている文書であり、絶え間なく変わる世界との関連の中で解釈されなければならない」とも述べている。

 時代背景や社会情勢に応じて解釈を変える「生きている憲法」こそ、オバマ氏の根幹にある司法観だ。「生きている憲法」といえば聞こえは良いが、実際は建国の理念を無視し、リベラルな価値観に沿って解釈を改めるという意味に他ならない。

 政教分離や同性婚、妊娠中絶など価値論争の潮流に絶大な影響力を持つ最高裁だけでなく、地裁、高裁を含めた全ての連邦判事の指名権は今、オバマ氏の手中にある。連邦判事は終身制であり、一旦就任したら、20~30年にわたりその座にとどまる。

 オバマ氏が退任した後も、同氏のリベラルな価値観は法廷を通じて米社会を覆い続けることになる。

(ワシントン・早川俊行)