神道とアメリカ・インディアン帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫氏に聞く

文明に問われる「命への畏敬」

 川上教授はアメリカでの黒人差別の研究からインディアンに関心を持ち、生活をともにしながら彼らの信仰にも深く分け入った。一方、伊勢神宮の近くに住み、神道にも関心が深い教授に、神道とインディアンの信仰について語ってもらった。なお、インディアンは部族の総称として古くからヨーロッパ人に付けられた呼称であり、歴史上インディアンとして生活し、迫害されてきたので、川上教授は「先住民」ではなく「インディアン」を使っている。 (聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

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まず大地に捧げられた獲物/老人、女子供から分配される肉

神道儀礼と通じる世界/同じモンゴロイドの絆

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400 ――神道に見られる古代日本人の自然観はアメリカ・インディアンにもあるのか。

 神道儀礼の基本になっているのは弥生時代からの稲作だが、インディアンは狩猟生活なのが大きな違いだ。もっとも、縄文時代の自然信仰が神道の基底にあるとすると、共通するような世界はある。

 インディアンの自然信仰の核にあるのはバッファロー信仰で、彼らはバッファロー・スカル(頭蓋骨)を非常に大事にして、祭礼を行っている。彼らの哲学では、バッファローは神のようなもので、大霊(ワカン・タンカ)に与えられた貴重な生活資源である。そのため、当座食べる分だけ取れればいいので、取り過ぎないようにしていた。

 肉の中で最高の肝臓の一部は、まず母なる大地に捧げる。肉を焼いた煙は大霊に捧げる。肉の分配は老人と女性、子供からで、弱い者を大切にする文化がある。そして、最後に男たちが食べる。食べきれない肉は乾燥して保存した。

 肉は食料に、皮はテントや衣服に、胃袋は容器に、爪は飾り物に、骨や角は武器や装身具、いろいろな器具になる。そして頭蓋骨は神殿のように扱われる。コロンブスがアメリカ大陸に到達したころも、まだ鉄器がなく、彼らは石器時代のような生活をしていた。

 陶器を使っていたのは南部のアリゾナ辺りに住んでいたナバホ族くらいで、肉を焼くには焼き石を使っていた。湯は水を入れた胃袋に焼き石を入れて作っていた。

 バッファローは群れになって移動しながら生活している。小さくて100頭から500頭、大きくなると千頭から数千頭が、餌を求めて移動する。地域でやって来る季節が決まっているので、インディアンのメーンの食料になっていた。バッファローは牛より大きいので、1頭狩ると長い間食べることができた。他にはシカやアンテロープにウサギなどの小動物だ。

 バッファローは胸が厚く、頭が大きい。その割に尻はしぼんで小さいが、走るのは馬のように速い。バッファローが来る季節になると、男たちは大挙して出掛けた。一度、狩りに出ると、2~3週間は帰って来ない。昔は弓で、ヨーロッパ人が鉄砲を伝えてからは鉄砲を使うようになった。

 ――バッファローを憐れむような心情があったのか。

 彼らの基本的な気持ちは、「命を奪ってごめんなさい」と「ありがとうございます」だ。「あなたの命でわれわれは生きることができる。だから、あなたをとことん使わせていただいて、無駄にはしません」と祈りを捧げた。

 ――アイヌには熊の魂を天に送るイヨマンテの祭りがある。

 アイヌには縄文時代の文化が継承されている。日本のいいところは縄文時代の自然信仰が今も残っていることだ。自然のあらゆるものに命を認めるという神道の思想は、縄文時代からのものだろう。

 ――インディアンの説話には、ワシントン州にあるレーニア山が他の山を恋する物語があるという。万葉集に収められている天智天皇の歌に「香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき……」とあるのに似ている。

 森に対する信仰は北欧やロシアにもある。森には妖精や妖怪、仙人が住んでいると思われていた。畏敬というより畏怖の念が強く、それが信仰に結び付いたのだろう。そうしたところから、グリム童話なども生まれた。日本も森林が豊かな国なので、森や大木に対する信仰が生まれた。

 ――産業革命以来の近代文明には自然を破壊する側面があり、批判されている。

 それを早くから唱えたのがアルベルト・シュバイツァーだ。1923年に書いた『文明の没落と再生』で、既に文明は没落しつつあると、まだ誰もそう思っていない時代に警告した。彼が48歳の時だ。

 文明の再生のために彼が主張したのが「生命への畏敬」で、命の不可思議さに恐れおののき、命をいたわる倫理思想だ。命を壊す権利は人間にはない。木はできるだけ切るな。若木は移植し、どうしても切る場合は、後に必ず苗木を植えよ、と彼は教え、実践した。彼は神学者で医者なので、科学者としての発言でもある。

 生命のドイツ語はレーベン、英語はライフだが、それに当てはまるような日本語がない。生命はその一部の意味でしかなく、他にも、人生、生きざま、生きがい、生活などいろいろな意味がある。

 私はそこで論文を書くときにすごく悩んで、最終的に「生命への畏敬」を「いのちのつがなり」と訳した。私とあなたはつながっている同じいのちで、あなたが苦しむと私も苦しむわけだ。その「あなた」は植物や動物でもある。生きとし生けるものすべてが、よりよく生きようとしている。それを阻害する権利は誰にもない。

 ――天台本覚思想の「草木国土悉皆成仏」と同じだ。インドで生まれた仏教も、日本に渡来して、縄文思想と融合して本覚思想が生まれたように思う。

 私は伊勢神宮の近くにある皇學館大學で英語を教えていたときに、神道を勉強した。神道は自然との共生が基本になっている。人間は自然の一部であることが強調される。したがって、自然によって生かされていることを重んじ、自然を崇敬することを大切にする。

 神道に決まった教義はない。基本的な考えは、人間は我欲の塊で、我欲による穢れで、神と遮断されている。神の世界に生きるように創られているのだから、穢れを洗い流さなくてはならない。その儀式がお祓いで、お祓いをすると、神の世界が見えるようになる、という。

 伊勢神宮には1年間に大小合わせて3000以上の祭礼があり、その中で一番大切なのが神嘗祭だ。その年にとれた穀物を神様に献上する祭りで、そのあと人間が食べる。外宮の祭りは10月15日の夜10時から16日未明にかけてで、学生と見学したが、非常に神秘的な儀式であった。

 まず、2人の神官が火を焚いて儀式をするのだが、遠いのでよく分からない。そのさらに奥でも儀式が行われているが、それは全く見ることができない。上の方にある別宮に移動すると、間近で儀式が見られた。30~40人の神官が白い衣装を着け、小さな声で祝詞のような声を上げる。その時、幣帛という布を献上する。また布を御神木の枝や垣根に結び付ける。

 不思議なことに、アメリカ・インディアンにも同じような神秘的な儀式があり、色とりどりの布を樹木の枝に結び付ける。彼らは日本人と同じモンゴロイドだが、人類史の深いところでつながっているのかもしれない。

 かわかみ・よしお 川上教授は20歳の時にアルベルト・シュバイツァーに出会ったことからキリスト教に引かれるようになり、洗礼を受けた。国際基督教大学人文科学科卒業後、1960~63年にはフルブライト留学生としてインディアナ州アンダーソン神学校に留学し、シュバイツァーの神学と倫理思想を研究した。アメリカの差別問題からインディアンに関心を持ち、インディアン名を授かるほどに彼らの暮らしにも溶け込む。大阪女学院、神戸女学院を経て69年より帝塚山学院大学教授。91~92年、米アイダホ大学客員研究員を経て、現在は帝塚山学院大学名誉教授。キリスト教神学や倫理を基に、人間らしい、自分らしい生き方をやさしく語る執筆・講演が多くの支持者を得ている。