歴代政権と政治改革 国民に夢を与えた安倍内閣
永田町も新年を迎えると新しくなる。しかしその新しさが目立たない。旧態依然だ。この流れは戦後殆ど同じだ。戦後といっても、もう60年を遥かに越えている。それを見るにつけ日本国民は実に辛抱強い民族だ。そう思わないことはない。
この間、内閣は何度も変わった。新しい首相たちは判で押したように同じことをいう。それは「政治改革」だ。しかしその政治改革は実行されたためしがない。永田町政治は昔の通り延々と今日に続いている。
たとえ、新しい政権が政治改革を唱えても、国民はもうダマされない。「またか」と冷ややかに見送るだけだ。しかし国民は諦めているのではない。
実は断固政治改革を実行して貰いたくてジリジリしている。しかしこの願望はいままで裏切り続けられてきた。だから熱望しながら半ば絶望しているのが実態だ。
しかし、安倍内閣はいささか違う。なにかやってくれそうだ。この期待がある。それは安倍内閣が長期安定内閣の素質を備えているとの期待があるからだ。いままでの弱小政権とは違う。コツンとした覚悟のようなものが感じられる。しかし政治は水ものだ。この期待も勘違いかもしれない。しかし勘違いであっても、国民にひとつのユメを与えてくれただけでも歴代内閣とは別物といえる。
永田町が一番緊張するのは解散の時だ。みんなバッジを外して裸になって戦う。しかし勝ち残り組も、それから2、3年するとすぐダラけて本業の使命も、国民からの信託も疎かになる。これが国民の負託を受けて死闘してきた政治家かとガッカリするのが常だ。だから行住坐臥解散風を吹かせてみるのも政治の定石のひとつだ。
ところで新しい年に解散はあるのか。これは誰にも分からない。解散権は安倍首相の手に握られている。伝家の宝刀を抜くか抜かぬか首相の裁量次第だ。だから弱いようで首相は強い。
安倍首相に注文をつければ切りがないが、首相は国民の注文に答えなければならぬ。スジさえ通れば伝家の宝刀を引き抜いても許される。いまのところ党内異論少なく、政府と党も協力を惜しまない。問題は総理総裁として与えられている権力をいかに有効に使うかだ。首相の誤った使命感ほど危険なものはない。
永田町を闘争の場と思ってはならぬ。国家国民のため政治家の総智総力を結集するところだ。新年で心を入れ替えるため政治家は国民の先頭に立て。
(I)