資料の管理は史料の保存だ

エルドリッヂ研究所代表・政治学博士 ロバート・D・エルドリッヂ

ロバート・D・エルドリッヂ

国益損ねる処分や改竄
「知る権利」は民主主義の柱

 昨今、財務省の文書改竄(かいざん)問題で、政治と行政の関係のみならず、資料の保管の在り方をめぐる議論が湧いている。本稿では特に資料の管理について論じたい。

 3月末、防衛省でイラクへの陸上自衛隊の派遣日報が発見され、4月から大きな話題になっている。情報公開請求に対して「存在していない」、野党の資料要求に対しても「文書は確認できなかった」との返事が繰り返されていたようだが、やはり実際に存在した。今後、防衛省はその経緯を説明していくというが、昨年、南スーダンへの陸上自衛隊派遣の日報隠蔽をめぐる問題で、陸幕長をはじめ事務次官や大臣の辞職につながったこともあり、防衛省に対する見方は厳しい。

 政府が資料を正しく管理するのは当然だ。資料の保管、つまり、国民の知る権利は民主主義の最も重要な柱の一つである。日本ほど官僚的で書類作成の好きな国はない。役所その他の機関での申請書類が多く、会議ではほとんどの参加者がメモを取ったり議事録を作ったりする。にもかかわらず、資料が「存在しない」「確認できない」という話を聞くと、笑ってしまう。むしろ腹が立つ。

 今から10年余り前、ある有名な財団主催の共同研究会のメンバーであった私は、アメリカの情報公開制度を中心に発表し、和文雑誌で研究会の成果を公表した(拙論「序幕は過去を開く―公文書公開と民主主義―」『アスティオン』第69号、2008年)。

 研究会のメンバーの一人(故人)は外務省出身であったが、彼によれば「きっと、これについて情報公開請求が来るだろう」ということで、「先に処分する」と述べ、私はそれを認めた。つまり、政府(この場合、外務省)の資料が破棄されている。歴史家であり、民主主義において「知る権利」を極めて重視する私は大変なショックと深い悲しみを覚えた。

 官僚の都合や組織のメンツ、政治家の政治生命のために、資料の処分や書き換え、改竄は絶対にやってはいけない。これは、民主主義のためだけではない。歴史研究のため、そして公共政策の改善のためでもある。

 まず、日本政治外交史の研究者として、日本の歴史研究、特に戦後の研究をするのに、非常にやり辛い。それは言葉の問題というより、史料の少なさのためだ。例えば、外務省の厚意で史料の公開が過去に何回かに分けて行われているが、いい文書もあれば、どうでもいい新聞の記事の抜き取りや演説のコピー程度のものも多い。日本版の情報公開法を利用してお願いしても限界がある。上記で紹介したように、先に処分されて「確認できていない」か「公開できる対象外」などの返事が来る。

 これは歴史研究をやる人間として非常に残念だが、私が日本人だったらもっと怒る。なぜなら、その結果、戦後日本の歴史を語ろうとしたら、外国の史料を使わないといけなくなるからだ。つまり、外国の文献で日本についての紹介になる。その場合、映る日本は、どうしても間接的な姿にすぎない。

 米国では1966年に情報公開制度ができ、政府の史料公開が進んでいる。母国語の英語で、日本について調べることができる。それは私にとって楽だが、二つの問題が生じる。

 その一つは、これが日本の国益のためになるかどうかという疑問だ。私はなるべく公平に日本政治、外交、政策などを評価しているつもりだ。しかし、私が反日的な研究者や活動家であれば、日本の研究者は反論できない。相当の史料が公開されておらず、反論する材料があまりないからだ。史料の公開もしない姿勢は国益を損なう。

 もう一つの問題は、それぞれの政策の意思決定の事後検証が必要だが、資料を保管し、公開しなければ、第三者によるそのような作業は不可能となることだ。よって、より良い公共政策が生まれるはずがない。

 資料は国民のものだという認識を徹底すべきだ。メモを含めて全ての文書は公式であっても非公式であっても国民のものであり、歴史を作るものである。処分してはいけない。

 また、資料公開の対象者を拡大すべきだ。アメリカでは、大統領図書館制度があるが、日本にはそれがない。これによって、大統領の研究は非常に進み、また、世界から研究者が集まり、研究の進化と地方創生にもつながっている。対して、日本の総理大臣の研究はあまり進んでおらず、ほとんどの総理大臣の資料館や博物館がない。寂しい限りだ。国内外の観光や地方創生にとってもったいない(詳細、拙論「不在の大国・日本―なぜ戦後の国際政治史に登場しないのか」『中央公論』07年7月号を参照)。

 もう一つ対象にすべきなのは、政党だ。自公与党は、政府の改竄、隠蔽、文書の保管問題などに対して厳しいことを言っているが、どうしても、それは政治的な判断としか聞こえない。本当にその重要性を理解しているなら、政策の意思決定において大きな影響力のある政党も資料を公開すべきだ。なお、一生懸命に政府を批判し、追及している野党に関しても同じことが言える。研究の対象になれば、改善されるからだ。政党が内部の史料(資料)を公開しなければ、改善されたくないと同じ意味になる。