天皇と憲法について考える
慣習や法にこそ主権存在
統治権の総攬者としての天皇
来年は、天皇の代替わりがある上に、憲法の問題も議論されているので、憲法上の天皇の地位などについて考えてみたい。
「日本国憲法」第1条では、よく知られているように、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と書かれている。だが、これを穿(うが)って読めば、国民の総意が変われば天皇制も改廃されるものとも解釈できる。しかし、国家の根本的な制度が、そんなにたやすく、その時々の国民の動向に左右されてよいものであろうか。
わが国の天皇制は、長い歴史の中で培われてきた伝統的な国の慣習であり、そういう伝統的慣習に国民も暗黙の内に参入することによって、一つの国家を形成していくことができるものなのである。天皇は、内閣総理大臣のように、その時々の国民の総意によって、めまぐるしく交代してよいものでもない。現に、天皇の地位は国民の総意に基づくとしながらも、現憲法下でも、天皇の地位は国民投票によって決めたものではない。国民の総意に基づいて天皇の地位が存するという場合でも、実は、伝統的な慣習によっているのである。
もともと、主権がどこにあるのかということも、国家論的観点から見た場合、定かではない。もしかしたら、立憲君主体制下では、主権は君主にあるのでもなく、国民にあるのでもなく、伝統的慣習にこそあって、それが法となって表現され、これに君主も国民も従うことによって、一つの国家は形成されるのかもしれない。慣習や法こそ主権者なのであり、その中に皆が参加して、初めて国家の一般意思が形成され、国民の意思統合も可能なのだとみなければならない。少なくとも、各個バラバラの国民の個別意思に主権があるのではない。天皇の地位は、〈主権の存する〉日本国民の総意に基づくという現憲法の民主主義的規定も、よく考えれば問題の多いものなのである。
わが国では、天皇は、伝統的には政治・軍事・文化などの精神的源泉であり、精神的権威であった。そのかぎり、天皇は象徴的存在であったと言える。しかし、わが国の長い歴史の中では、天皇は多くの助力者を得てのことだが、国家が危機に面した時には親政を行い、その権威によって国家の危機を乗り越えてきた。この時は、天皇は単なる象徴にとどまっていたわけではない。この面から言えば、明治憲法が天皇を元首とし、統治権の総攬(そうらん)者と規定していたのは、天皇制の本質をよく捉えていた。
ということは、逆に言えば、明治憲法は、天皇主権を謳(うた)ったものではなかったということである。天皇による統治といっても、帝国憲法の条規により行われたのであり、天皇が自らの恣意(しい)で何でもできたのではない。明治憲法下でも、議会の協賛と承諾、さらに内閣の輔弼(ほひつ)によってのみ、天皇はその総攬者としての任務を果たし得たのである。その意味では、明治憲法は決して主権在君ではなかった。君主もまた法に従わねばならず、その法は伝統的な慣習から、その源泉を得ていたのである。
「日本国憲法」下では詔勅は排除されたが、「帝国憲法」第55条および第8条によれば、この憲法下で出された詔勅でさえ、内閣の補弼と国務大臣の副著を必要とし、勅令の場合は、帝国議会の承諾がなければ効力を失うことになっていた。詔勅や勅令でさえ、天皇が勝手気儘(きまま)に乱発したものではなかった。明治憲法下の日本の政体は、どこまでも立憲君主体制だったのである。
憲法というものは、ただ単に各条文を一定の理念に基づいて整合的に作っただけでは定着しない。憲法は、その国の最も基本的な法なのだから、その国の実態・風土・慣習・伝統を生かし、それに根差したものにしなければ生きたものにはならない。手続き面でも、憲法は、その国の慣習を十分生かしながら、長い論議を経て、それこそ国民の合意によって作られるものでなければならない。
この点から言っても、今日の憲法は不透明な部分が多過ぎる。他国の占領によって自分たちの生き方を決定する〈主権〉が著しく制限されている時に、あろうことか、外国から与えられた上に、どさくさに紛れて作り上げられた憲法は、たとえ形式的には問題ないようにされていたとしても、それこそ、国民主権・民主主義に反していたとも言える。
現憲法制定時は、草案の提示も、それを日本人の意思で作ったという形をとることそのことも全て占領軍の強制下にあった。天皇も、日本政府も、アメリカ占領軍の支配下にあり、自分たちで自分たちの生き方を決定することが困難な状況で作られた憲法が、今日の憲法なのである。そのことは、現憲法の第9条ばかりでなく、第1条の天皇条項にも微妙に表れている。日本国民が天皇の在り方について考えねばならない時である。
(こばやし・みちのり)






