特定秘密保護法案審議の総括

東洋学園大学教授 櫻田 淳

紛糾は与党側の不手際

適宜、検証し修正する努力を

櫻田 淳 12月6日深夜、特定秘密保護法案は、参議院本会議で可決、成立した。この法案への賛否の姿勢は、大別して次の三つしかなかった.

 ①秘密保護法制は要る。拠って、賛成。

 ②秘密保護法制は要る。だが、現在、審議中の法案は欠陥が多い。因って、反対。

 ③秘密保護法制は要らない。拠って、反対。

 筆者は、①の立場で論陣を張っていた。安全保障上、秘密保護法制の不在を放置するわけにはいかないとすれば、特定秘密保護法案は、諸々の不備はあっても通すことが大事であろうという判断のゆえである。

 佐々淳行(元内閣安全保障室長)は、この法案を、「秘密保全のための厳格な法律がないために日本が外国から信頼されていない現状を是正するための『必要悪』」と評しているけれども、それが常識的な解釈というものであろう。しかも、この種の法案は、「政権の体力」がある時でしか提案できないのも、事実なのである。

 もっとも、法案審議のプロセスでは、与党は相当な下手を打っている。与党サイドからすれば、当初は「野党の賛同を得た上で」という体裁で成立を図ろうとしたはずである。だから、少なくとも議論は成立しそうな野党諸党との修正協議を断続的に進めようとしてきたのである。

 前に触れた①の立場ならば、そもそも③の立場の人々とは折り合えないけれども、②の立場の人々が相手ならば条件に絡む議論ができるからである。

 法案審議の過程では、石破茂(自民党幹事長)は、国会周辺で行われていた反対デモを念頭に置き、「絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」と発言して物議を醸したけれども、それは、③の立場を批判する意味でのものであろうとは容易に推測できる。安全保障に絡む法制の議論をしている際に、「戦前の治安維持法の再来だ」という類の議論をもちだされたら、議論が続かないということになるからである。

 これに加えて、映画監督や俳優という類の人々が、反対声明を出したらしいけれども、彼らは、法案の趣旨や細目をきちんと理解した上で、態度を表明していたのか。「イメージだけで物事を語り、イメージに踊る」風潮に自ら乗っている様子を露わにしたという意味においては、彼らの姿は、その政治認識の「浅薄さ」を浮き彫りにしたといえよう。

 しかしながら、この②の立場を相手にした議論に際して、与党は、「野党の賛同を得る」という建前に縛られた結果、修正協議での論点を拡散させてしまったようである。結果として、「何を揉めているのかが判らない」という印象を世に広めてしまった。さらにその結果として、「野党の賛同を得る」という当初の意図からは遠く離れたところでしか、落着できていないようなものになった。

 特に野党の中でも、修正協議に加わりながら参議院本会議採決の場では欠席した「みんなの党」や「日本維新の会」の対応は、誠に判り難いものであったけれども、そうしたことも含めて法案審議の紛糾は、第一義として与党の不手際の責めに帰せられる。

 結局は、与党は、急いだ結果として、全幅の「自信」に裏付けられたとはいえない法案を出していたのかもしれない。

 もっとも、特定秘密保護の審議の過程を観察するのは、筆者にとっては然程(さほど)、愉快なものではなかった。国会審議で与野党が激しく衝突する「大荒れ」案件というものは、過ぎてしまえば、「どうでもいいことにエキサイトしていた」類のものに終わっていることのほうが多い。

 1993年の国連平和維持活動(PKO)協力法も、1999年の通信傍受法も、そういう類のものであった。この二つの法案の審議に際しても、「戦前のような息苦しい時代が来る」という類の反対論が展開されたけれども、その後の日本社会の様相は、「息苦しい」ものに変わったであろうか。

 国会審議における「大荒れ」案件は、特に野党に対して、理不尽な横暴に抵抗しているという「運動の快感」を提供するための材料である。これがなければ、大方の野党議員は、普段の「地味な時間」には耐えられないのではないか。

 特定秘密保護法案の成立を悦ぶ雰囲気は、実は与党の側にも然程、ないのであろう。この種の法律は、国民の「福祉」を直接に担保する性格のものではないので、前に触れた佐々淳行の認識の通り、「必要悪」の意味合いを帯びざるを得ない。

 今後、特定秘密保護法は、国家安全保障会議発足に合わせるという当座の必要に急(せ)かされた「促成栽培」の類であったという認識の下で、適宜、検証し修正する努力を続けてもらうしかあるまい。

(敬称略)

(さくらだ・じゅん)