未熟な日本の安保政策論議
国民の命守る主体性を
集団的自衛権の行使は必要
集団的自衛権の行使を可能にするために、与党間協議が進められている。国会でも、衆参各1日の議論が行われたが、具体的事例を話し合えば話し合うほど、細かいケースにとらわれるばかりで、先に進まなくなるような状況だ。
また、一強多弱と言われる政界の勢力の中で、日本維新の会が事実上、分裂した。これは、憲法をどう改めるかということについての、見解の違いからくるものであるようだが、理由は色々あるようだ。
これらの事象から、憲法や安全保障という、国家の根幹をなすテーマについて、昨今の議論がその争点がどんどん小さくなっているように感じており、日本の政治の未熟さが心底心配である。集団的自衛権の行使については、容認するケースとして15余の具体例が示されている。邦人がいる場合、いない場合、自衛する艦船が米国籍か第三国籍か、周辺を含めた日本有事なのかPKOなのかなど、明確に判断を分けようというところが、いい意味でも悪い意味でも日本らしいと感じる。
そもそも、集団的自衛権というのは、同盟関係にある国が他国から攻撃を受けた時に、自国への攻撃とみなし、可能な限りの防衛措置を取るということだ。シンプルに解釈すれば、日本にとっては、米国が唯一の軍事同盟国であることから、米国への攻撃を自国への攻撃とみなして対応するということになる。それが、日本国内なのか、日本周辺なのか、米国本土なのかなど、本来なら場所について厳密に問えるものなのかと思う。
事実、米国は、日米安全保障条約により、日本が攻撃された時は、米国領土内の有無にかかわらず、日本を防衛する義務を負っているのである。現在、日本は米国に対して同様の行動をとることは不可能であるが、集団的自衛権の行使が可能となれば、日本にとっては日米安保体制においても大きな前進になるのだ。軍事力の行使について制約のある日本にとって、せめて同盟国である米国に対してだけでも、独立国として当然の振る舞いができなければ、日本は世界の笑いものになる。
軍事力の行使に制約があった日本は、昭和20年の敗戦以来、戦争に参加することなく、平和な時代を築いてきた。戦後20年以上経って生まれた私は、その恩恵を受け、平和で豊かな国で生きてくることができたことも事実である。
一方で、このような軍事力の制約等は、戦争の反省や占領下の状況の中で作られたものであり、今や国際情勢も大きく変わっている中で、当然、日本が独立国として整備しなければならないことも、日本が国際社会の中で担う役割も変わっているのである。現状や予測できる将来に照らし合わせながら、一独立国として、また米国の同盟国としてとるべき体制やその基となる考え方は、敗戦直後のままでいいということではない。
安倍総理大臣が、集団的自衛権の行使を、憲法解釈の変更で可能にしようというのは、正攻法ではないにせよ、現実としてはこの方法で致し方ないだろう。本来は、国の防衛や安全保障政策を根本から作り直し、憲法も改めてから行わなければならないと思うが、それにはまだ国民に考える力が足りず、いつまでたっても実現に至らないのは目に見えている。それよりは、「米国との関係」という限定された条件が付いたとしても、同盟国である独立国として国際社会の常識的な行動がとれるということは、大きな一歩である。国際社会に向けて、その日本の姿勢を示すことも重要であると考える。
次には、PKO活動などでも、ともに行動している国々に対しても、「常識的な」行動がとれるようにすべきである。議論の中で、「巻き込まれる」という表現が頻繁に使われるが、受動的な態度こそ改めるべきであり、主体性をもって行動することなしに、本当は国民の命など守れないはずだ。
日本維新の会が分裂することになった大きな理由に、「憲法改正」か「自主憲法制定か」という考え方の違いがあった。共同代表の一人、石原慎太郎氏は、現憲法を破棄しまったく別の新しい憲法を作るという自主憲法制定が持論である。それに対して、もう一人の共同代表の橋下徹氏は、現憲法改正による新憲法制定を目指す。
結果としては、どちらも現憲法改正の必要性や新しい憲法の制定を望んでいるということは一致していると思うのだが、「破棄論」ではそれに伴って作られた法律をどうするのかなどの問題があると主張し、一方、現憲法の改正という方法では、占領軍が作った現憲法を基として残すことへの抵抗感などから、両者にとっては決して小さな問題ではないと考えるのだろう。各政党の綱領や基本政策などを見ても、憲法改正と謳っているところがほとんどである。そもそも日本維新の会も、維新八策の8番目に「憲法改正」として、「占領憲法を大幅に改正し、国家を立て直す」とある。
「憲法改正」なのか「自主憲法制定」か、米国に対してだけなのか他国に対してもなのかなど、一見小さな問題のように映る議論も、実は、「独立国」としての国家をどう考えるかという重要な考え方を背負って行うものである。国家の役割は、国民の命を守り、国際社会と協調し、貢献するということに尽きると、私は考える。政治家各人には、国家の役割をきちんと頭において、議論を進めてほしい。
(ほそかわ・たまお)