ノモンハン事件から80年
日本対外文化協会理事 中澤 孝之
日本の対ソ強硬論が後退
太平洋戦争に向かう契機に
昭和の半ば、当時の満州国(現中国東北部)とモンゴル人民共和国の間で国境線をめぐって起きた紛争、「ノモンハン事件」から今年で満80年を迎えた。
両国の後ろ盾として、満州国を支配していた日本と、モンゴルを衛星国としていたソ連邦とが武力衝突したのは当然の成り行きであった。日ソ国境紛争の一つと数えられている。
この紛争は1939年5月11日から9月15日まで続いた。紛争の呼称は、国境周辺の地名や戦場の中央を流れる河川の名称から、日本では「ノモンハン事件」、モンゴルや中国では「ハルハ河戦争」と呼び習わす。旧ソ連やロシアでは「ハルハ河の戦闘」と称している。
戦闘能力に圧倒的な差
ハルハ河より東を国境と主張していたソ連・モンゴル軍が5月、日本側が国境としていたハルハ河を越えて満州側に入ったことから、大規模な武力衝突に発展。当初、攻勢だった日本軍は占領した高地を中心に塹壕(ざんごう)を張り巡らせた。しかし、日本側の主力は歩兵で、使用したのは明治時代に開発された三八式歩兵銃。対するソ連軍は戦車が中心で、日本軍は次第に防戦を強いられる。前線の日本兵は火炎瓶を片手に戦車に向かうしかなく、多くの戦死者が出た。
戦後、旧防衛庁が編纂(へんさん)した戦史などによると、関東軍の辻政信少佐(02~68年/辻参議院議員は61年4月、東南アジア視察旅行のため出国して以来消息不明となり、最後は家族の失踪宣告請求によって東京家庭裁判所が69年6月に、68年7月20日付の死亡宣告を行った)は、国境紛争が起きた際、越境も厭(いと)わないとする要綱を立案。日中戦争や日独伊3国同盟の締結問題の解決を優先する最高統帥機関の大本営は再三、不拡大の方針を伝えたが、辻ら参謀や関東軍幹部は、これを無視したという。
一方、モスクワで9月14日から東郷茂徳駐ソ特命全権大使とビャチェスラフ・モロトフ外相との間で停戦交渉が進められ、最終的にはスターリンの決済で、15日に停戦協定が成立した。
約4カ月に及ぶ交戦の詳細は省くが、戦闘の結果、交戦の戦闘能力が圧倒的に優位にあったソ連軍とモンゴル軍が大日本帝国軍・満州国軍に勝利した。ソ連・モンゴル軍は総兵力や火砲、戦車、戦闘機など兵力比で日本軍の4倍もあった。前者の戦死者は9703人、戦傷者は1万5952人、後者はそれぞれ7696人、8647人、生死不明1021人と記録されている。
事件を機に日本の対ソ強硬論は後退、資源獲得のため東南アジアへ進出する南進論が優勢となり、太平洋戦争に向かうきっかけとなったとされる。多数の死傷者を出した責任を取らされたのは、一線の連隊長らだった。事件について十分な分析や反省が行われることなく、辻少佐はのちに大本営参謀に就任した。
ノモンハン事件80周年(ロシア大統領府は「ハルハ河での戦闘における勝利の80周年」と呼称)を機にプーチン露大統領は9月3日、モンゴルの首都ウランバートルを訪問、ハルトマーギーン・バトトルガ大統領(63年~/第5代大統領就任は2017年7月)と首脳会談をした。モンゴル主催の80周年式典で「ロシアとモンゴルの“共通の勝利”を祝った」プーチン大統領は同地での共同記者会見で、「ソ連とモンゴルは力を合わせて侵略者を追い出し、モンゴルの主権を守った」と述べ、歴史的な友好関係を強調した。
協力関係を強める露蒙
モンゴルは事件を、自国の独立を守った「戦争」と位置付けており、8月下旬にはウランバートルでロシア軍舞踊団の公演や、ロシア戦闘機のパレードを実施するなど80年記念に当たり両国は大規模な記念行事を開催した。事件の主戦場となった東部ハルハゴル郡では3日、ロシアの資金援助で整備した街が披露されたという。
プーチン、バトトルガ両首脳は、両国の友好、協力関係を推進する新たな基本条約に署名。バトトルガ大統領はプーチン大統領の招待に応じて、来年5月にモスクワで開かれる第2次世界大戦の対独戦勝75周年を祝う記念式典に出席すると表明した。両首脳はまた、事件当時ソ連軍を率いたゲオルギー・ジューコフ元帥(1896~1974年)の像に献花した。
(なかざわ・たかゆき)






