北米植民地のユダヤ系兵站

獨協大学教授 佐藤 唯行

英仏両軍で重要な役割
同族ネットワーク駆使し活躍

佐藤 唯行

獨協大学教授 佐藤 唯行

 軍の補給部隊が未発達だった近世欧州。兵站(へいたん)と呼ばれる軍需品の補給業務は民間の商人、とりわけユダヤ商人が重要な役割を担っていた。この状況は欧州列強が北米に築いた植民地でも同様だった。英仏による覇権争いが激化した18世紀北米において兵站業務は最大のユダヤビジネスに成長していたのだ。

 英軍の兵站業者として3世代にわたり頂点に君臨したのがフランクス家だ。この仕事が特定の家族の家業として継承されてきた事実をフランクス家の事例は示している。業務上のノウハウや人脈、資金が確実に受け継がれるという点で、ファミリービジネスには利点があったわけだ。

現地で牛育て肉提供も

 初代ジェイコブがロンドンから北米へ移住したのはアン女王戦争期(1702~13年)だ。後に第2次英仏百年戦争と呼ばれる長い戦争の始まりに商機を見いだしたのだ。ジェイコブは英軍からの受注を絶やさぬよう長男・次男をロンドンへ常駐させた。軍上層と英政界への働き掛けをさせたのだ。北米本部を継承したのは三男デービッドだ。フランクス家成功の要因は3兄弟の連携と政界・軍部との結び付きにあった。また出身母体であるロンドン・ユダヤ商人団の後ろ盾を期待できた点も見逃せない。

 デービッドが最も活躍したのは「フランスおよびインディアンとの戦争」(1754~63年)だ。総額75万ポンドの軍需品を英軍に納入し、最大の兵站業者となった。その一方で、きめ細やかな配慮も怠らなかった。新鮮な牛肉を供給できるよう英軍駐屯地の近くに牧草地を借り、牛を育てているのだ。

 後に初代米大統領となるジョージ・ワシントンとの出会いもこの戦争だ。ワシントンがヴァージニアの民兵隊を率い仏軍と戦った際、補給を担当したのがデービッドであった。独立戦争が勃発すると今や独立派の指導者となったワシントンから新たな仕事が舞い込んだ。

 降伏した多数の英兵のために糧食、寝具、衣服を供給する仕事だった。最終的に費用を英政府に負担させるこのプロジェクト。ロンドンに同族ネットワークを持つデービッドが適任とみなされたのだ。長らく英本国政府のために働き続けたデービッドであったが、この頃、既に独立派への同情は強まっていたのだ。ワシントンからの依頼に迷いはなかったのである。

 フランクス家の好敵手として仏植民地派遣軍を支えたユダヤ系兵站が仏ボルドー出身のアブラアム・グラディだ。1759年だけでカナダ駐屯仏軍へ4500㌧もの兵糧、弾薬を12隻の船で輸送している。大量の物資調達を可能にしたのが、父の代に築いた仏・蘭・仏領西インド諸島・カナダを結ぶ同族ネットワークだ。多くの親族を駐在員として派遣してきたのだ。「フランスおよびインディアンとの戦争」のさなか、仏領カナダの防衛を担った仏将モンカルムが英軍相手に果敢な抵抗を続けられたのも、上述のネットワークに支えられたグラディによる補給のおかげであった。

 けれど海軍力では劣勢だった仏軍。その兵站を担ったグラディが被った犠牲は大きかった。カナダへ派遣した輸送船の半分は英海軍に拿捕(だほ)されてしまったのだ。それでも兵站業務は魅力的だった。同業者が尻込みする中、輸送費は高騰し、ハイリスクを恐れぬグラディに恵みをもたらしたからだ。1780年に彼が死んだ時、遺産は1000万ルーブルに達したそうだ。

ルイ15世が直々に称賛

 英国との戦いでグラディが成し遂げた功績については、仏王ルイ15世が直々にお褒めの言葉を与えたといわれる。また在仏ユダヤ教徒への市民権付与活動に尽力した開明的カトリック神父グレゴワールは、ユダヤ人解放を唱える自説の拠(よ)りどころの一つとしてユダヤ人グラディによる祖国への戦時貢献を挙げている。

 グラディ家の事例は英国のみならずフランスにおいてもユダヤ系兵站が重要な役割を果たしていた事実を示している。この点について時代は少し下るが、仏革命期とナポレオン戦争期には在仏ユダヤ人の実に4分の1が手下も含めて兵站業務に関与していた、とユダヤ史の大家スジャコウスキーはその著『仏革命とユダヤ人』の中で指摘しているほどだ。

(さとう・ただゆき)