故野呂田元防衛庁長官の教え
拓殖大学国際日本文化研究所教授 ペマ・ギャルポ
「受けた恩は忘れるな」
日印・日スリランカ友好に尽力
1965年、初めて日本の土を踏んでから早53年が経過した。その間、多くの日本の方々にお世話になった。特に日本滞在問題では多くの政治家にお世話になったことは言うまでもなく、多くの財界の方々に精神的および物質的な面で大変お世話になった。
自分自身が歳を取ったせいかもしれないが、当時の多くの社会的および政治的なリーダーたちは厳しさと思いやりを十分に持っていたように思う。政治家たちには風格と重み、それを裏付ける有言実行の能力と覚悟があり、何よりも社会と国のためという不動の信念を持っていた。
「人間は死ぬまで勉強」
今回は特に政治家に焦点を置いて少し回想したい。私がお世話になった政治家の中には、灘尾弘吉元衆議院議長、坂田道太元衆議院議長、長谷川峻元労働大臣他、多くの60~70年代に日本の中心におられた方々、さらには70~80年代においては平沼赳夫、中川一郎、石原慎太郎、野呂田芳成他その時代、日本の政界の中心におられた方にもいろいろな面で力添えをいただいた。
中でも野呂田芳成元防衛庁長官にはいろいろな国に随行させていただき、直接公私共にご指導いただいた。その野呂田先生が今年5月23日に他界された。私は大切なよりどころを失っただけではなく、日本国にとっても大きな損失であったと痛感している。
先生は大変な勉強家で、海外に出張する際も飛行機の中に本を何冊も持ち込んで読んでおられた。先生は口癖のように「人間は死ぬまで勉強だ。そのためにはたくさんの本を読むこと、いろいろな国を見て学ぶこと、自分が持っていないものに優れた方々の話を聞くこと、そして何よりも思考すること、うそを言わないこと、困難から逃げないこと」等々について、生涯直そうとしなかった故郷の秋田弁で爽やかに説いて下さった。
先生は長くスリランカ、イスラエルなどの友好議員連盟の会長を務められ、面倒見がとても良く、大使たちはお世辞ではなく本当に父親のような存在だと言って厚く信頼し尊敬していた。私は国連を含め先生の海外出張に同行しただけでなく、外国からの要人たちの接待にも同席し、生涯自分では行けないような有名な料亭でごちそうにあずかったこともある。これは先生からすれば教育の一環であったように思う。
先生が他界されてから、私は改めて先生のご著書『思い切なれば必ず遂ぐるなり』を読みながら先生の郷土愛、愛国心そして人類愛に満ちた言葉に接することで、今でも先生から語り掛けられているような気がして胸が熱くなった。
先生は人の恩を必ず返すことが大事であるとおっしゃっており、著書でも「東京裁判におけるパール判事が“東京裁判は戦勝国が一方的に敗戦国を裁くものであり、国際法上不当なものである”と主張し仏陀の言葉を引用して無罪を主張してくれたのは良く知られていることである」、またさらに「1951年から始まったサンフランシスコ講和会議で、スリランカ(当時セイロン)のジャワルダナ蔵相(後の大統領)はこの仏陀の言葉を披露しながら敗戦で塗炭の苦しみにあえいでいる日本を弁護し、スリランカ自身も経済が窮迫していたにも拘わらず、対日戦争賠償請求権を放棄する発言をした。中には対日賠償権を厳しくして日本を再起不能にしようと考えていた国もあったがスリランカのこの発言によって日本は救われたのである」と著している。
先生は実際、私費で何度もこの二つの国を訪問され、両国と日本の関係強化に努められた。先生は「我々はインドやスリランカから受けた恩を石に刻んで忘れてはならない」と著書にも記しておられる。この両国も先生の貢献を高く評価し、それぞれの国で外国人に与える最高の勲章を授けた。
世襲否定、秘書を政界に
先生は日本の現代社会の劣化を憂え、著書でもその原因を細かく分析しておられる。先生の有言実行ぶりは、ご自分のお子様は世襲させず、5、6人の秘書たちを政界に送り込んだ。世襲制を声高らかに否定しながらも最後に息子を政界に送り込み、「親ばかですから」と開き直る政治家とは大きく違う。私は多くの日本人がこの著書を手に取ることが日本を救う道の明確なヒントになると信じている。











