「民主的な家庭」が生み出す悲劇

NPO法人修学院院長・アジア太平洋学会会長 久保田 信之

未婚・離婚増え、子供減る
「縦軸が支える常識」を無視

久保田 信之

NPO法人修学院院長・アジア太平洋学会会長 久保田 信之

 男女は基本的に平等であり対等な独立した個人である、と高らかに謳(うた)った日本国憲法が施行されて70年以上が経過した。その間に、個人の自由を最大限尊重し、束縛せず依存せず、尊敬し合って共に成長するとした「民主的な家族」を是認する風潮は、特に、歴史的繋(つな)がりの希薄な若い世代には、広く深く浸透していったようだ。

 イギリスの哲学者チェスタトンが「時間的デモクラシー」と評したのも同じ趣旨だが、わが国には長い時間(歴史)の中で醸成された常識があった。しかし、時代の変化に適合した共通認識を「常識(common sense)」と称する「空間的デモクラシー」が主流になったようだ。

 歴史のないアメリカによって創られた新憲法や民法は、この「縦軸が支える常識」を無視して、横の広がりだけを重視した軽薄な理念で貫かれている。70年以上が経過した今日にあっても、日本人が「常識外れ」の理念に戸惑い混乱している原因はここにある。

父系主義を採る国籍法

 イエ制度の「父系主義」を否定して、「民主的な家庭」を「常識」にしようとしたが、「縦軸が支えた常識」を理屈抜きで受け入れてきた人々の心に定着するものではないのだ。日本の国籍法は父系主義を採っている。婚外子の別扱い、さらには妊娠、出産といった生物学的性差を重視する立場からの結婚年齢の相違、さらには、これに起因する女性の再婚禁止期間の問題、その他、日常の社会生活には「民主的な家族」とは異なる「縦軸が支える常識」が安定した社会現象を支えているのだ。

 社会現象を見ようとしない評論家や条文をいじくり回す学者諸氏が「民主的な家庭」を「世界の常識」だと高く評価し、「遅れた日本の課題は諸外国と同じように解決しなければならない」と主張して、日常生活に合致しない「常識外れの法律や制度」を創り出すものだから、厄介な課題が続発して混乱を深めたのだ。

 ここで改めて、「民主的な家族」が生み出す深刻な問題を概観してみよう。

 某有名女性タレントが結婚記者会見で「独立した対等な男女が、互いに尊敬し合って成長する関係を構築したい」と力説していた。彼女が将来を嘱望された政治家の妻として直面する具体的な家庭生活は、自分よりも相手を重視し、時には相手に従属する「主体客体の一体化・合一化」に脱皮しなければならない場面に否応なしに遭遇するはずなのだ。彼女が言う「独立した対等な関係」とは、「双方が距離を置いて過ごした、自分中心的な、独身時代の関係」だけを言っているのではなかろうか。

 「干渉しない、束縛しない、依存しない関係」は、「相手の心に入り切れない、相手に必要とされない自分」を自覚させられる結果を招くはずだ。「民主的な家族」が「薄くもろい、煩わしくない関係」を理想とするから「自己存在を見失う悲劇」を招くのではあるまいか。

独居老人・孤独死も増加

 「個の確立」を求め自律・独立を理想とする社会風潮が主流を成してきたから、結婚しない男女が多くなり、離婚が増え、子供の数が減り、独居老人や孤独死が増加したという、常識では考えられない悲劇が、あたかも必然的帰結であるようにわが国を曇らせているのではないか。

 第三者的立場の者が、遠く離れた傍観者的立場から理屈をこねる「理の世界」から「情の世界」を支配するような了見では「家庭生活」は理解できないし、自ら築き上げることはできないのだ。長い時間的経過の中で、多くの先人たちが参画して醸成した「縦軸が支える常識」の方が、第三者が決めた「近代的な合理的な規則」より、はるかに相手の心に届く力を持っている。情の世界が全てに優先するとは言わない。しかし、夫婦、親子の密度が高い家庭での人間関係は「理屈ではない」。これこそ「縦軸の通った常識」が教えてくれる正解だ。

 鎧(よろい)兜(かぶと)を脱ぎ、叩(たた)く武器を捨てて、自分を素直に表現できる場は「民主的な家庭」にはない。

(くぼた・のぶゆき)