近代拳闘の先導者、英ユダヤ系

獨協大学教授 佐藤 唯行

洗練された競技に進化
攻撃と防御のバランス重視

佐藤 唯行

獨協大学教授 佐藤 唯行

 近代ボクシング発祥の地、英国。その草創期1760年代から1820年代にかけて、少なくとも30人のユダヤ人が英拳闘界で活躍し、競技の近代化に貢献した。総人口の0・1%にすぎぬ在英ユダヤ人の多くが貧困と差別に苦しんでいたこの時代は、英拳闘界におけるユダヤの黄金時代でもあったのだ。

 最強のユダヤ系選手は第16代英国チャンピオンとなり「イスラエルの星」と称(たた)えられたダニエル・メンドーサだ。彼の活躍に対する英国民の熱狂ぶりを示す一例となるのが1789年夏、仏革命勃発と時を同じくして彼が闘った試合だ。この時、英諸新聞は革命よりも彼の試合の方を優先的な紙面で報道したほどであった。彼の叙事詩的闘いぶりについては、民衆歌謡の中で長らく歌い継がれたのであった。

反ユダヤ感情和らげる

 評判を聞きつけた国王ジョージ3世はメンドーサを王宮へ招き、親しく言葉を交わした。国王への拝謁(はいえつ)はユダヤ庶民層にとり前例の無い栄誉であった。王室の愛顧は英社会に蔓延(まんえん)していた反ユダヤ感情を和らげたのだった。

 自身の技を他者に文字で伝える知性の持ち主でもあったメンドーサは『拳闘術』を出版した。同著で彼が掲げた修得すべき第一の原則とは、体のバランスを常に保ち続けることであった。パンチを繰り出す時も、相手のパンチをかわす時も、常に体勢を崩さぬという教えだ。打撃系格闘技を学ぼうとする者にとり大切な基本と言えよう。

 また同胞に加えられる街頭での侮辱、暴行に心を痛めていたメンドーサは、ユダヤ人街に拳闘ジムを作り同胞の若者に護身のための拳闘術を教えた。これによりユダヤ青少年の間に熱病のごとき拳闘ブームが沸き起こったのだ。腕に覚えのある弟子たちの中からは、拳ひとつで富と名声が得られる職業拳闘家への道を進む者も現れたのだ。

 その筆頭が、師に次ぐ偉業を成し遂げ「鉄の拳を持つ男」と呼ばれたサミュエル・エリアスだ。体重別階級制など無かった当時、僅(わず)か58キロにすぎぬエリアスの対戦相手は皆大男。百戦を超す試合のうち、負けは数回というから驚異的戦績だ。素手で殴り合うベアナックル時代、「最強のハードパンチャー」と評価されるゆえんである。軽量が災いして王座に就けなかったが、あと5~6キロ重かったらなれただろうと言われる。

 拳闘史上における功績はアッパーカットの発明だ。1804年の某試合で無意識のうちに編み出した打法だ。また打ったらすぐ距離を置き、相手の反撃をかわす師譲りのヒットアンドアウェイ戦法もエリアスの得意技であった。師と同じく英国ユダヤの民族的英雄に祭り上げられている。

 3番目の戦績を誇るのが「東洋の星」と仇名(あだな)されたバーニー・アーロンだ。前述のふたりと同様、国際ボクシングの名誉殿堂入りを果たしていることからも傑物に違いない。軽快なフットワークと巧みな間合いの取り方で軽量のハンディを克服した。この他に冷静沈着な試合ぶりで知られたアイザック・ビトンは引退後、師と同じくユダヤ人街にジムを開き、後進の育成に尽力した。またベラスコ4兄弟の長男エイブラハムは民族意識旺盛という点では師と同じで、反ユダヤ発言を行った対戦相手に抗議文を送りつけている。

同胞に誇りと自信付与

 拳闘史上においてこの時期の英ユダヤ人ボクサーが果たした役割についてもまとめてみよう。それは防ぐことさえ卑怯(ひきょう)とみなす攻撃重視の古典的ボクシングから、攻撃と防御のバランスを重視した近代ボクシングへの進化発展を先導した点であろう。メンドーサが開発した相手のパンチをかわす巧みな足さばき、サイドステップはその典型と言えよう。

 また飲酒夜遊びが常態化していた拳闘界に、練習一筋の禁欲的トレーニング法を導入したこと。野蛮視された路上での懸賞拳闘試合を、世間の尊敬を得られる洗練された競技へと進化させたのも彼らの功績だ。最後にユダヤ史上における功績だが「金儲(もう)けは得意だが臆病(おくびょう)な弱虫」という世間の偏見を崩し、ユダヤ人側に自信と誇りを与えた点は特筆に値しよう。

(さとう・ただゆき)