「ナラティブないのち」とは
名寄市立大学教授 加藤 隆
人間は「物語」を紡ぐ存在
「情報」は代役にはなり得ず
以前、大阪のホスピス病棟で得難い経験をしたことがあった。余命がわずかとなった中年の男性が、20年音信不通にしていた弟の連絡先を見つけ出し、病室に呼んで長年不義理であったことを涙ながらに詫(わ)びて和解を果たしたのである。この光景を見ながら、人間は身体の苦痛を和らげるための医療的処置だけで満足する存在ではなく、より本質的には、心の平安に生きていることをまざまざと思い知った。このことは、『死ぬときに後悔すること25』という、数千人の最期を看取ってきた医師の著書でも触れられている。死期が近づくにつれて後悔として強く残ることは、人格や人間関係に関わる事柄であるという。そして、最も多かった後悔は、愛する人に「ありがとう」を伝えなかったことであった。
健康や寿命に偏り過ぎ
最近、医療の世界では「生物学的ないのち」に対して「ナラティブな(物語られる)いのち」ということが重要視されている。つまり、患者が男性であろうが女性であろうが、検査の結果の数値によって判断され、妥当な医療的処置を施されるようないのち観が「生物学的ないのち」だろう。それに対して、起き上がるのも大変だがこの作品は何が何でも仕上げてから旅立ちたい、終末期の厳しい身体の状態であるが長年帰っていなかった故郷の墓参りをしたいなどのいのち観は「ナラティブないのち」であろう。
人間には果たすべき役割、使命があるのではないだろうか。「ナラティブないのち」とは、このことを言っているように思う。しかし、現代社会の風潮は、あまりに健康志向や寿命の増進に偏り過ぎて、人間は本質的には物語を紡ぐ存在であることが忘れられていないだろうか。忘れられているというよりも、科学的知見を万能とする風潮、個人を物事の中心に据える在り方などによって、物語が寸断されていないかということである。そして、先ほど紹介した「死ぬときに後悔すること」ではないが、その時になってふと我に返り、物語を紡いでこなかった自分に気づくのである。
さて、昨今の風潮として、「物語」の寸断を埋めているのが、「情報」なるものではないだろうか。彼らには、手垢(てあか)のついたような「物語」など不必要であり、生活に役立つ「情報」さえあれば人生はうまく渡っていけると確信している。こうして、世の中は「情報」で溢(あふ)れ返っている。早朝から深夜まで連綿と流されるCMを通じ、あるいは、さまざまなネットツールを通じて「情報」が跋扈(ばっこ)し、我々の欲望に向かって嗾(けしか)け、消費こそ人間の生きる価値なのだと嘯(うそぶ)く。かようにして、我々は立派な消費人として情報に貢献し、「物語」抜きの情報化社会はますます堅固になっていく。
果たして、「情報」は「物語」の代役が本当にできるのだろうか。情報漬けの日々を送りながら、不寛容と苛立(いらだ)ちを募らせている現代人を見るにつけ、その答えは明確である。情報は常に消費される性格を持っており、新しい情報が手に入れば、古い情報は不必要となる。いわば、使い捨ての連続をしているのだ。「あなたは古いですよ」「そんなもので満足していたら、仲間から乗り遅れますよ」と、常に恐怖と不安を煽(あお)るのが情報なのである。そして、決して我々の生や死を支えてくれるものではない。
「物語」は人格的出会い
これに対して、物語の立ち位置は正反対に見える。ある宗教学者は、「物語は、一度出会ってしまうと出会う前の自分には戻れません。さらに、この物語は私のためにあったと思えるものです」と語っている。いわば、人格的出会いとでも呼び得る唯一無二性がそこにはある。V・フランクルがアウシュビッツの極限的な体験から「私が人生に何を期待するかではなく、人生が私に何を期待しているかを問うことが第一義のことなのだ」と語るとき、そこには物語が宿っている。
人間は「意味の動物」であり、意味なしに生きていくことは困難な存在である。浅薄な情報でそれを代替するのではなく、生の前からの物語、死では終わらない物語こそ求められているのではないだろうか。
(かとう・たかし)






