東洋的思想の「精神療法」

根本 和雄メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄

「森田療法」100年に思う
「生き方」の処方箋に活用を

 日本で生まれた森田正馬(まさたけ)による「森田療法」の理論が確立したのが1919(大正8)年、森田正馬45歳の時で、今年は100年の節目である。

 それは、西欧的思想に基づく「精神療法」が分析的かつ原因・結果論的アプローチであるのに対して、「森田療法」は東洋的思想による「円環論」的で、心身一元論の立場で物事を自然の流れのなかで“あるがまま”に受け入れようとする考え方である。

 つまり“柳は緑、花は紅”であり、苦は苦として引き受け、それになり切ったときに、苦を抜け出すことができるというのである。

 すなわち「あるがまま」とは「事実(じじつ)唯(ただ)真(まこと)」(物事本位)なので、このような受容的態度こそが森田療法の要訣(ようけつ)なのである。

 西欧的思想に基づく「精神療法」の代表は、S・フロイトの「精神分析」であり、日本にこのフロイトの精神分析を紹介したのは、丸井清泰教授(東北大学)で、後に森田正馬(以下・森田と略す)との論争は、日本精神医学界での激しい論争の一つとして今日に至るまで伝えられている。そこには、西欧的な人間理解と日本的・東洋的な人間理解の対立とともに、独自の精神療法を創始した森田にとっては、フロイトの精神療法との優位性を争うものであったと考えられる(精神医学者・内村祐之による)。

 さて、森田は、人間には本来自然治癒力が備わっていて、それを働かせることによって心理的な問題も解決できると考えた。

 例えば「神経症」になりやすい人は、完璧主義者で向上心が強く反省することが多いタイプである。このタイプが何かのきっかけで問題を抱えると“こうあってはならない”という思い込み(拘(こだわ)り)が強くなり“あるがまま”の自分を受け入れられなくなり、ますます問題が深刻化する。このような悪循環が「繋驢桔(けろけつ)」(「臨済録」示衆による)で、その結果、自然治癒力が働かなくなる。それを断ち切るには、まず症状をあるがままに受け入れて、やるべきことを「行動本位」に実行することであるという。つまり「気分本位」でなく「行動本位」で、気分や感情に重きを置かず、行動を重視して、目的に対する達成感を優先する「目的本位」の生き方を目指すことである。確かに、W・ジェームス(アメリカの心理学者)はこう語っている。“まず、行動を変えれば、自然に感情も変わる”と。

 そして、森田は“外相整えば、内相自(おの)ずから熟す”と述べている。すなわち、心が苦しくても行動や態度(外相)を整えれば、不快な感情が消えて心(内相)が整うという。実はこの言葉は『徒然草』(吉田兼好)に“外相(げそう)そむかざれば、内証(ないしょう)必ず熟す”(157段)とある。つまり、「健康らしく振る舞うと自然に健康になる」ということではなかろうか。

 次に、森田療法で重要なのは、「計らわない」ということで“自ずから成るもの”が自然に私たちに備わっている生きる力(内的自然力)を大切にすることで、それには無理をせずに“ほどほどに”「満たし切らずに満足する」という潮時を心得る生き方が大事であるという。

 これを「八九成(はっくじょう)」の生き方セラピーということができるかと思う。

 アメリカの文化人類学者のD・レイノルズは、1965年から森田療法の調査研究を行い、その著書『森田療法による建設的な生き方』(86年)で、森田の言葉を引用して、こう述べている。“われわれが向上しようとしているのは、楽に生きるためではなく、失意のときでも成功への努力を続けることができるようになるためである”と。そして森田療法は“静かな療法”<quiet therapy>であり、また、“たゆみなく、なすべきことをし続けよ”さらに“今・此処(ここ)を生きよ”とポジティブな生き方セラピーを説いている。

 さて、これからの森田療法の新しい可能性について述べれば、それは「病」に対する治療にとどまらず、人生が直面する「生老病死」の問題にどう対処するかという「生き方」の処方箋として、その活用が期待されている。例えば、無理な生き方から生ずるストレスで心が萎(な)えているときは、不安を受容しつつ建設的に行動するポジティブなメンタルヘルス対策、また「老い」に直面し、その老いを受け入れつつどう向き合うかが問われている。さらに「死」とどう対峙(たいじ)するか、さらに「ターミナルケア」(終末期医療)においては、自然の摂理である死を否定せずにどう受け入れて生きるかということ。わが国の「超高齢多死社会」の生き方に東洋的叡智(えいち)を生かした「精神療法」として、これから森田療法が求められるのではなかろうか。

 詰まるところ森田療法は“人生をどう生きるか”という問題に対処しつつ常に〈自然に服従し、境遇に従順であれ〉と深い洞察に満ちた言葉で語り掛けてくれている。

 そこには、使徒・パウロの言葉を想起せずにはいられない。

 “我(われ)は如何(いか)なる状(さま)に居(お)るとも

足ることを学びたればなり”と。(ピリピ書4・11)

(ねもと・かずお)