ゴーン容疑者の道義的責任
物欲最優先文化の担い手
社会正義の価値基準を破壊
国際政治の面においてはアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が前代未聞の共同コミュニケ発表を見送るという事態に直面した。その大きな要因は米中の対立であると報道されている。この問題はそう簡単に解決できるという見通しが無いので、今後もこの問題についてフォローし愚見を述べることにしたい。今回は世間を騒がせている日産のカルロス・ゴーン容疑者逮捕の問題について私の見解を示したい。
基本的に私は一仏教徒として他人の不幸を喜ぶということは良しとしない立場であるが、今回は正直に言って日本の特捜部はよくぞやってくれたというのが率直な気持ちである。それはゴーン容疑者個人に対する恨みつらみがあるからではなく、彼に代表されるようにモラル無き商業の文化をつくったことに、日頃から危惧するところがあったからである。私は当欄においても10年前から数回、彼がつくった現象に対する批判を述べたことがある。
1990年のソ連の崩壊後、極めて強欲で傲慢(ごうまん)な資本主義が台頭し、グローバリゼーションと合体して世界を一部の多国籍企業や個人が搾取するようになった。その象徴的な経営者の一人がゴーン容疑者であった。かつてはソ連の共産主義と中国の毛沢東が労働者階級や“弱者”の保護をモットーに資本主義に激しく対抗し、革命をもくろんで世界各地でさまざまな階級闘争を行った時代においては、資本主義側もそれなりの緊張感を持って社会における富の格差を調整してきたように覚えている。
私の50年余りの日本での生活で千人万人単位で社員の首を切ったのはゴーン容疑者が初めてであった。彼の首切りによって普通の生活が困難になった被害者は解雇された人々の家族だけではなく、その人たちが消費者として社会の一角を支えていた人々の生活にも打撃を与えた。また国内の工場を閉鎖し、不動産を売却するほか、その資産と技術を中国など外国に移転させた。その結果、確かに日産の収益は黒字になったことは事実であったが、誰もその背景の犠牲者たちのことや日本の国益に多大な損害を与えていることについて触れなかった。むしろメディアや強欲な経営者たちは彼を経営の神様のように祭り上げた。
今回の彼に関連するテレビや新聞を見る限りにおいては、彼が報酬の半分を申告しなかったこと、あるいは私的な利用のために会社の資金で世界4カ所に子会社を通じて豪邸を用意させたなど、法律上の側面からしか取り上げていないように感じる。闇の錬金術が判明したなどと言っても、民主国家である日本においてはせいぜい数年間の刑務所暮らしか、あるいは多額の罰金を課することで問題は法的には終了するかもしれない。しかし私はそれ以上に問題視すべきは、彼および彼のような人々が社会に与えた悪影響と物欲最優先の文化をつくったことで、それに対する責任を問うべきであると思う。
例えば彼の年収に関しては8億~20億円という記事があるが、少ない方の8億円であったとしても平均的なサラリーマンの年収430万円の約186倍である。日夜現場で汗を流し危険な仕事をしている人々や、足を棒にして営業している人々の苦労と生活を考えれば、ゴーン容疑者の給料は不公平極まるものであり、社会悪であると言えよう。
彼のような人々が社会の金銭感覚を麻痺(まひ)させ、社会正義の価値基準を破壊しているため、社会全体が幸福の基準は精神と物のバランスにあることを忘れ、そのため人間的感情に基づく社会構造も劣化した。世界各国の政府や地方自治体も、大企業や大金持ちに対しては土地を誘致し税金を免除する一方、弱者に対しては増税し土地を強制的に奪っているという現在のグローバリゼーションの二面性の悪の部分を露呈している。従って私たちはゴーン容疑者の事件から学ぶことは、法的な側面は当然であるが、それ以上に社会正義とは何か、国民の真の幸福とは何かを考えるべきであるということだ。
日本の新聞によっては、今回のゴーン容疑者の逮捕は日本人中心の日産の社内から彼の傲慢なやり方や不正に対し行動を起こしたことで、グローバル企業にも超えられない国境があったと指摘し、それが残念なことであるかのような印象を与えている。だが、私はそもそもグローバル化の下で他国の人間に経営のトップを任せること自体間違ったことであると考える。彼ならびに現在世界で大もうけしている個人や企業が私欲を最優先しているのは当然で、ブラジル生まれレバノン育ちのフランス人が日本の国益を考えることなどそもそもないのである。
残念ながら私たちの生活に直接責任を持っているのはそれぞれの政府であり、それを支えているのは国民である。そして政府は国際社会において各々の国の国益を調整しながら、一方では国家に対しても多大な影響力を持つ多国籍企業や個人があらゆる富と機会を独占していることに警戒心を持つべきである。