パワハラ問題の頻発に思う
NPO法人修学院院長・アジア太平洋学会会長 久保田 信之
背後に「誤った教育観」
上下関係認めない現代社会
女子レスリングで五輪4連覇を果たし国民栄誉賞を受けた選手がパワーハラスメントを受けたとして、関係者が内閣府に告発した事件以後、アマチュアボクシング界での事件、日大アメフット部での事件、さらには体操協会を揺るがす事件等々を全てパワハラ問題として騒ぎを大きくしている、この風潮に疑義を感ずるのである。
元来、パワハラとは、企業内の人間関係において①職業上の地位または職場内の優位性を背景に②本来の業務の適正な範囲を超え③継続的に④相手の人格や尊厳を侵害する言動が行われ⑤就業者に身体的・精神的苦痛を与える行為―を念頭に置いた言葉である。現在騒がれている選手指導の問題とは、出発点において大きく異なる。すなわち、選手・学生は、指導・訓練を要する「未熟者」である、教育・指導の対象なのだ。職場における上下関係と、教育・指導上の上下関係を、あえて混同したマスコミ関係者の姿勢は、そもそも、いかなる場面においても「平等、対等な人間関係であらねばならない」といった「現実無視」の前提から発していると糾弾せざるを得ない。
「上の地位の者が、職業上の地位または職場内の優位性を背景に不適切な言動を重ねて」というパワハラと、スポーツ界や教育界での指導が同質だと判断し、決め付けているところに無理があると主張したいのだ。教育なり指導は、必然的に「上下関係」の中において行われる。「指導する側と指導される側」では知識量、経験量、判断力その他、異なって当然なのだ。同等な関係などあり得ない。
「人間として同じなのだ」という訳の分からない主義主張が頻繁に、無責任な人の口の端に上る。これに賛同し麻痺(まひ)している人が多い昨今が危険なのだ。「人間」という文字が示すように「つながり関わり合いの違い、生活年齢に伴う経験その他、さまざまな違いを含んだ存在」が具体的な「人間」なのだ。「ヒト科の動物」は、地球上に多数いるが「人間」はそれぞれ異なり、対等でも平等でもないユニークな存在であるのだ。
ところが、現在の日本には「平等」「対等」「同等」な関係として接することを崇高な人間尊重の理念だとする風潮が蔓延(まんえん)している。「人を同じに見ないことは、許せない差別だ」と言い、企業内や学校その他家庭を含む一般の組織内に「上下の序列」があることが許せないと決め込んでいる。こうした偏った思想の持ち主が、「教育を受けることは己の主体性を失うことだ」と公言して憚(はばか)らないのだ。
こうした「上下」の存在を認めたくない輩(やから)の精神的特徴は①自己自身の価値観を絶対基準として違いを許さない②己とは違う存在を高く評価できず、良くて無関心、悪くすれば敵愾心(てきがいしん)を向けて否定する③相手を、上下、正邪、真偽に仕分けて自己成長の糧にはしない④興味関心の幅が狭く、燃える心が乏しい―など、固い個我の持ち主の場合が多いと言えよう。
最近の初等中等教育段階で主流になっている教育理念は、自主性・主体性の尊重であり、個の確立である。学校生活はテストに良い成績を上げることであるため、勉強という名の記憶の訓練はよくするが、その邪魔になる趣味は乏しく、話題も乏しい。自己主張はするが、違いを自己成長の糧にしない。想像力が乏しいので心は騒がない。こういった「批判精神旺盛な、さめたタイプ」が学校教育での優等生の中には多くなったようだ。
こういった「優等生」が指導者になる確率は高いため、指導的地位についても「違い」を許せず、相手に合わせることができない。彼らは、自分の中で立案し、検証した指導理念や方法にはことのほか自信を持つ。その結果、相手が発している情報に耳を傾ける必要を感じない。
彼らは、到達段階までの過程に価値を置かない。早く、無駄なく、要領良く通過することを高く評価するから、何回説明しても、何回練習しても理解できず、また、自分が設定した段階に到達しない相手には、我慢できない「不寛容な固い心」になっているのだ。
現在、社会問題化しているスポーツ界の混乱は、「個我が強く、批判精神が旺盛な未熟者」が教育の相手になっており、一方には「教育そのものに価値を見いだせず成果・結果だけを求める指導力の乏しい未熟者」が教育の指導者になっている現実が原因している。
こうした状況の中で、パワハラだと騒ぎ立てれば立てるほど、指導者はすくみ、指導を怖がって手抜きをする。一方、拘束・束縛を嫌う「自主性豊かな(?)教育」の対象は、指導者を批判することには長(た)けているが自己反省などしなくなるのだ。
歴史も違い、生活様式も大きく違う「欧米の教育理念」に傾倒し、それとは違うというだけで、世界に冠たる優れた日本の初等教育の基本理念を捨ててきた。根無し草同様、さまよい続けてきたのが、この七十数年の日本の学校教育だ。「教育は哲学の実験室だ」。じっくりテストしてから現場に下ろす慎重さが必要だし、うまくいかない弊害が多いからといって、現在の理念を捨てて、新しい理念に乗り換えるような移り気はやめてほしいのだ。教育は温故知新を大原則とする活動だ。責任感を強く持って現実に接してほしい。
(くぼた・のぶゆき)






