道義なき国に落ちぶれた日本
NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之
原因は現憲法第3章に
国民を単なる「ヒト」に分解
最近の世相を見ていると、『道義』という言葉がなくなったように思えてならない。健全な社会の秩序は「法律と道義」で維持されており、「道義こそ法律以上の役割を持っている」と日本人の多くは暗黙の常識として保持してきた。法律では禁じられていないが、やってはならないこと、法律では義務付けられていないが、進んでやるべきことを、誰から強制されたわけでもなく、まさに自然と「汚いことはしない」道義心を持つよう育てられて、それぞれが「○○らしいおとな」になって社会生活を安定させていたのだ。
警官は警官らしく、親は親らしく、男は男らしく等々、善しあしは別にして「人間を同質」とは見てこなかった。これは今言う差別ではなく、違いの尊重でもあったのだ。
しかし昨今は、平等・等質を絶対命題にしているから、強く言えば、上昇機運よりも「上を皆と同じレベルに引きずり下ろす」下降機運が支配的になったようだ。
政界、経済界、官界さらには「心の育成を担う」宗教界や教育・言論界をながめてみても、「不適切ではあるが違法ではない」とか「法に触れていないのだから悪とは言い切れない」といった、破廉恥で幼稚な自己弁護を、指導的地位にある者が発している。これが日本の実情なのだ。
先の西日本の未曽有の豪雨大災害のときにも、こともあろうに安倍総理以下、自民党議員数十人が議員宿舎で「赤坂自民亭」なる酒宴を開いていたではないか。最低限「まずいことをしてしまったな」と、心を痛めるのが、われわれの知っている「道義的人間」の姿だ。ところが「関係省庁には適切な指示をしておいたから問題ありません」と開き直ったのであるから、あきれてものが言えなかった。彼ら政治家より、酷暑の中、災害地に乗り込んでくれたボランティアの人々の方が、はるかに「道義的人間」だ。
真心、本心の声を打ち消して「酒宴を開いても法に触れない。罪にはならない」と、汚い自己弁護をする人間を誰が尊重するであろうか。
現在の日本人が判断の根底に置くようになった「法」は、質とは無縁な数が生みの親だ。多数の同意の下に法は成立するのだから善悪も数で決まる。「質より数」「道義よりも法」に支配されている国に、いつから成り下がってしまったのであろうか。
道義なき現代社会の悲劇は、「上」に見習ってか、身近な日常生活の中に充満している。
治安を維持する警察官までもが『らしさ』を裏切り殺人鬼に豹変(ひょうへん)したり、看護師が患者を多数毒殺したり、はたまた見知らぬ通行人を複数殺傷しておいて「誰でもよかった」と平然と言い放つ若者までもが出現した。親殺し子殺しは今や誰も驚かない。際限ない、殺伐とした世相を誰が健全な姿だと言えるであろうか。
先人が追い求めて確立してきた日本独自の『道義』を、かくも脆弱(ぜいじゃく)なものにした原因を、私は、日本文化とは完全に乖離(かいり)した『日本国憲法』にあると糾弾したい。
第14条に人種、信条、性別、社会的身分、または門地(家柄)を『差別要因』として忌み嫌う表現がある。この『国民の権利及び義務』という第3章こそ、日本社会を「道義なき混乱状態」へと陥れた最大の原因だ。改正すべきは第9条ではない。
この日本国憲法には具体的な『日本人』はもちろんのこと『人間』も出てこない。男性とか女性という性差を重んずることすら「許されない差別だ」という。祖国の歴史・文化伝統を尊重し祖国の存続と発展に貢献しようとする人間が『国民』だが、国民がいない。国民を歴史も文化もない「ヒト」(individual)に分解してしまった。
「私に国が何をしてくれるかではなく、私は国に何をすべきかを考えてほしい」とJ・F・ケネディは主張したというが、現在の国会でこれを主張したら大騒ぎになる。『国家』を基本において人間の在り方を考えることが「危険な国粋主義」だと批判されるからだ。
この憲法では「社会的身分で人間を見ることは忌まわしい差別だ」というが、政治家や公務員は「市井の民」「単なるヒト」と同じであってはならないのだ。実際「一般人」が起こしてもあまり話題にはならないような事件でも、政治家や役人が起こした場合には激しい批判にさらされる。単なるヒトとは全く違う反応をされるのだ。
現在日本では相手を自分よりも「低く見る」ことだけが差別として糾弾されているが、相手を高く見て自分の中に入れない、相手を除外視するのも差別であろう。上の者を引き下ろし、自分と差がない「真っ平らな関係」を求めるのが、現在の日本の民主主義であり主権在民なのだ。
これらは全て文化のない歴史のない移民によって成り立ったアメリカからの輸入品だ。「未曽有の精神的大混乱期」に立ち至った今こそ、「人種信条その他を全て差別要因として排除した後に残る単なるヒト」なのではない『日本人の真実の心』を、大災害に立ち向かっている善意の方々を、冷静に感謝の気持ちを持って幅広く詳細に検討してみる中から探し出してみる必要があると言いたい。
(くぼた・のぶゆき)