沖永良部島と西郷隆盛、島で成熟させた「敬天愛人」思想
鹿鹿児島県和泊町・西郷南洲記念館職員 宗 淳氏に聞く
鹿児島県の沖永良部島は、島津久光の怒りを買った西郷隆盛が約1年半、島流しにされた地。この間、西郷は生涯で最も勉学に励み、子供たちの教育や島民の指導から、「敬天愛人」の思想に到達したとされる。和泊町にある西郷南洲記念館の宗淳さんに、西郷と沖永良部島について伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
陽明学や聖書学び到達
島民の生活改善にも尽力
銅像の西郷が座禅している牢屋のそばにある胸像の人物は?

そう・あつし 昭和26年鹿児島県和泊町生まれ。駒沢大学卒業。写真関係の会社に勤務し、定年前の約10前にUターン。平成23年から西郷南洲記念館に勤務し、案内や説明に携わるかたわら、沖永良部島の歴史を研究している。
西郷の横目(監視役)になった薩摩藩士の土持(つちもち)政照と、西郷の塾の教え子・操担勁(たんけい)です。土持は島役人で豪農でもあり、父親が薩摩の役人であったため薩摩の言葉を話せました。
野ざらしの格子牢で西郷が衰弱していくのを見かねた土持は、代官に座敷牢への改築を申し出ます。藩の命令書には西郷を「囲いに入れる」とあり、「牢に入れる」とは書かれていなかったので、家の中にいてもいいと読んだのです。そこで、上司を命懸けで説得し、牢の改築の許可が出ると、牢をわざと壊し、「牢を修繕する間に移す」という名目で座敷牢を造ります。
完成までの20日間、土持は西郷を自宅でもてなし、土持の母ツルの看病で西郷の心身は回復していきます。ツルは薩摩の役人の島妻だったので、薩摩の言葉が話せました。西郷は土持に感謝し、島を離れる前には義兄弟の契りを結んでいます。
林真理子さんの原作では、土持は自宅に座敷牢を造っていますが、それは間違いで、牢と同じ島の役所の敷地に造りました。脚本家の中園ミホさんは沖永良部島に取材に来ていますから、ドラマでは直すかもしれません。
当時、沖永良部島には薩摩藩の囚人が70人から100人いて、彼らはかなり自由に動けたのですが、西郷だけは狭い牢屋に閉じ込められていました。それだけ島津久光に嫌われていたのです。
徳之島にいた71日間はまだ刑が決まっておらず、久光が帰国すると、もっと遠い沖永良部島に送られました。
沖永良部島に流されていた政治犯の一人、川口雪篷(せっぽう)は陽明学者で漢詩や書の達人でした。土持の紹介で西郷を知った川口は、西郷に学問を教えると同時に仕えるようになり、赦免された西郷に少し遅れて鹿児島に帰ってからは西郷家に住み付き、子供に勉強を教えるなど面倒を見ています。赦免になれば互いに相手の家族を世話することを約束していたからです。
西郷家が一番苦しかったのは、明治10年に西郷が自決し、名誉回復がなされる22年までの12年間で、その間、川口は西郷家を助け、72歳で西郷家で亡くなっています。
また西郷は、土持の依頼で島の子供たちに読み書きや四書五経を教えるようになります。子供たちとは一緒に相撲を取ったり魚釣りをしたり、疑似餌(ぎじえ)の作り方も教えています。島になじんできた西郷は、旱魃(かんばつ)や台風で飢饉(ききん)になった時に備え食糧を備蓄する社倉を提案するなど、島民の生活改善に尽力します。
その後、社倉のおかげで島では餓死者が出なくなりました。社倉の必要性がなくなると、その跡地に明治35年、島民により南洲神社が建立されました。
社倉は今の農業共済制度で、ほかの島は加入率が4割以下ですが、西郷の教えが残る沖永良部島では8割を超えています。そんな歴史から和泊町は昭和55年に教育の町宣言をしました。
テッポウユリのハウスを案内してくれた和泊町経済課課長の武吉治さんに、花卉(かき)栽培成功の要因を聞くと、「西郷さんのおかげで、驚くほど真面目ですから」という返事でした。沖永良部は「敬天愛人の島」と呼ばれていますね。
沖永良部島にいた間、西郷が陽明学をはじめ漢訳の旧新約聖書も学び、たどり着いた思想が「敬天愛人」でした。敬天愛人の言葉は中国の古典にありますが、それを西郷はこの島で成熟させた。10年間、下級の役人として農村の貧しさを見てきた経験も反映されています。
和泊町では昭和58年に西郷の牢屋をコンクリートで復元しました。広さは当時と同じ、元は木製で、四隅が角材、ほかは丸太でした。西郷南洲記念館は平成23年にできました。
西郷が沖永良部島にいた時に生麦事件が起こり、その後、薩英戦争が勃発します。
それを知った西郷が船を仕立てて薩摩に帰ろうとしたので、土持は家中(やんちゅう)と呼ばれる奴隷身分の家人を売って船を建造します。罪人の西郷が船を造ることはできないので、土持が自分の船として許可を得たのです。土持は西郷と一緒に薩摩に行こうとします。
もし薩摩に帰っていれば脱獄なので、西郷は処刑されていたかもしれません。ところが、船が完成する前に戦争が終わったとの手紙が届きます。その後、西郷は許され、迎えの船で帰りました。
島の学校では西郷のことを教えていますか。
紙芝居を作り、小学校1年生に西郷の生涯を教えています。1学期と2学期は各学校で2回ずつ、3学期にはまとめて5・6回目を西郷南洲記念館で行い、牢屋に入ってみたり、南洲神社にお参りしたりします。2年生には西郷の教えを受けた人たちや沖永良部島の偉人について、3年生には祖父母らと話が通じるよう方言を教えています。
和泊西郷南洲顕彰会の活動は?
西郷の功績や沖永良部島との関わりを地元の小学校や公民館講座「西郷塾」で教えています。西郷は思想や人材だけではなく、先輩が後輩を指導する薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育の仕組みを島に残しました。明治30年、和泊の戸長だった操が子供たちの勉強会を立ち上げ、運動は島中に広がりました。
『南洲翁遺訓』を編纂(へんさん)した旧庄内藩の山形県鶴岡市・酒田市との交流は?
西郷と親睦を深め「徳の交わり」を誓った元家老の菅実秀(すげさねひで)の子孫の方や公益財団法人庄内南洲会(水野貞吉理事長)の方たちが何度か沖永良部島に来られ、島からも山形に行っています。





