コロナ禍の今、考えること
NPO法人修学院院長 久保田 信之
日本的な「個の確立」を
我欲に打ち克つ努力」が自粛
このところ連日夕刻になると、テレビ各社が、当日の新型コロナ感染者の動向について、棒グラフで知らせてくれます。重症者および死亡者の実数も報告していますが、いずれも過去最高であるとか、緊急事態、制御不能な事態だと、切羽詰まった非常事態にあることを訴えています。
感染者の爆発的な増加で、医療の崩壊といった危機的状況にあります。「これを食い止めるのは人流を減らすほかない。どうぞ、しっかりと自覚し協力してください」と、菅総理や尾身会長に加えて小池都知事も、テレビを通して繰り返し、切々と訴えていますし、専門医は皆、外出を自粛するよう訴えています。
人流を抑えるほかに、緊急事態を食い止める道はないことを知らない人はいないはずです。
建設的なテレビ報道を
だがしかし、テレビでは、「家に閉じ込められるのは、もう我慢できない」「限界です」との自己弁護を放映して強調し、何の屈託もなく街を闊歩する大量の若者たちの姿を全国に知らせているのです。新宿や渋谷の繁華街が、まるで活気あふれる楽天地であるかのように報道しているのです。
報道に接するわれわれは、コロナ禍の今を落ち着かせようと誰かが頑張っているとの情報が欲しいのです。政府に明るい未来を取り戻せると主張しているのではないのです。最低限、祖国日本を守り育てる共通の立場に立って、地に足の着いた、建設的な姿勢をテレビ報道からうかがえれば安心できるのです。
敗戦によって日本は民主的で自由な国家になったのだ、というような「八月革命」は言わないでほしい。神代の昔から世界に誇れる独特の文化を先人たちは築き育ててきた、という日本人が支えにしてきた思想を根底に置いた発言をしてほしいのです。
「己に打ち克(か)つ自分の育成」は、日本文化の真髄でした。敗戦と同時に流行(はや)り出した「個の尊重」「自由の謳歌(おうか)」が、日本人が長い歴史の中で築き上げてきた「日本的個の確立」「心穏やかな自由な日本人」を求め続けてきた事実を放逸したのです。歴史伝統の中から、粗野粗暴な個人ではなく、安定した成長力豊かな「自由人」を送り出していたのです。
敗戦以来今日まで、われわれ一人一人は、「自由で、独立した個人である」と教えられ、他人に頼らず、自力で生きてきました。
確かに、「自分の人生を自分で切り開くことは、身軽で、楽しい。こうすれば、二度とない、自分の人生を謳歌できる」こう思い、憧れ、こういう未来を誰にでも実現できると信じてきたのです。
「自分の判断と結果責任」を前面に打ち立てれば「明るい充実した未来が築ける」と、心底思ってきた。「自由万歳、個人尊重万歳」であったのです。
コロナ禍に限らず、国難との闘いは、バラバラな個人ではなく、多くの他者と結び付いた個人、すなわち日本国民であるという意識を共有しなければできません。己の言動が広く他者に影響するのだという自覚は、世界の常識ではないでしょうか。
「我欲に打ち克つ努力」が自粛であって、「国家権力による人権の抑圧」だとしか考えられない日本人は異常です。
大規模災害時に「非常事態宣言」を出して国民の意識を喚起することは為政者の義務でしょう。「迅速にして徹底する」これが鉄則です。決断を躊躇(ちゅうちょ)した「自粛」の要請は、往々にして「正直者が損をする」不公平、不満を助長します。各界の責任者は、国論を一致させる姿勢を今こそ求める時だと思います。
自己中心的な個に憤り
日本社会の深刻な病状を目の当たりにしながら、空しさをかみしめるのは私だけでしょうか。改善策が分からなくてもいい。自己中心的な個の姿に憤り、不快感を味わい続ける敏感な心は失わないでほしいのですが、どうでしょうか。
(くぼた・のぶゆき)






