「東京2020」と「時代の精神」

東洋学園大学教授 櫻田 淳

「大会の哲学」用意し得ず
甘やかされて育った戦後世代

櫻田 淳

東洋学園大学教授 櫻田 淳

 「東京2020」(東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会)が幕を開けた。「東京2020」は、準備の過程で諸々(もろもろ)の不手際や醜聞が積み重なった上に、新型コロナのパンデミック(世界的大流行)最中に挙行される結果、日本国民の大勢の「共感」には程遠い催事になったようである。

 米紙「ワシントン・ポスト」記事(電子版、7月17日配信)は、既に「東京2020」を「完全な失敗」と評している。何故(なぜ)、「東京2020」は、このような無残な評価に甘んじざるを得ない催事になったのか。

時代画した「1964」

 振り返れば、57年前、「東京1964」の運営を基幹的に仕切った人々は、ほとんどが戦争に伴う「痛恨や挫折」を骨の髄まで知っていた世代である。それは、「時代の過酷さ」に最も直接に向き合った世代であると言えるであろう。

 それ故にこそ、第2次世界大戦前からの「国際社会での孤立」と戦争に伴う「国土の荒廃」を経て、日本が「国際社会への本格復帰」と「国土の復興」を内外に印象付ける催事として、「東京1964」に寄せられた「時代の大義」は、自明であった。

 実際、現在に至る映画「007シリーズ」中、日本を舞台にした第5作「007は二度死ぬ」が公開されたのは、「東京1964」の3年後、1967年である。そして、その後には、三波春夫が『世界の国から、こんにちは』を歌って、その開催を寿(ことほ)いだ「1970年、大阪万国博覧会」が続く。

 「東京1964」以後、従前ならば、限られた層しか接しなかった「世界」が、一般庶民層にも近いものになった。「東京1964」は、確かに一つの「時代の画期」であったのである。

 片や、「東京2020」に寄せられた「時代の大義」は、何であったのか。そもそも、TOCOG(「東京2020」組織委員会)は、誰か哲学者、文学者、あるいは歴史学者のような人物を起用して、催事全体を「時代の相」の下に位置付ける努力をしたのであろうか。

 そうした努力を怠って、高々、スポーツ・イベントとエンターテインメント・イベントの「寄せ集め」のように準備したから、「東京2020」は、「何故、開かれなければならないか」が判(わか)らない催事になってしまったようである。

 公式エンブレム選定から、開会式演出や開会式楽曲に至るまで、それに関わった人々の悪評が絶えないのは、TOCOGが、そうした人々をスクリーニングするための「大会の哲学」を終(つい)ぞ用意し得なかったことに因(よ)るのであろう。

 振り返れば、橋本聖子(TOCOG会長)を含めて、「東京2020」の運営を基幹的に差配しているであろう1960年代から70年代前半生まれの世代は、「戦後の平和と繁栄の中で半ば甘やかされて育った坊やとお嬢」の世代である。

 その程度の差はあれ戦争に伴う「痛恨と悲惨」を経験し、その後に「東京1964」の準備と運営に関わった世代に比べれば、「世を舐(な)めた」風情が漂うのも、仕方がないかもしれない。

 開会式楽曲の作曲を委嘱されていたものの、過去の障害者虐待が海外にも報じられた小山田圭吾(ミュージシャン)もまた、筆者も含む「戦後の平和と繁栄の中で半ば甘やかされて育った坊やとお嬢」の世代の醜悪な典型であろう。

三島の予言通りの日本

 「東京1964」の6年後、「昭和元禄」の世の最中に自裁して果てた三島由紀夫は、往時の日本について、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或(あ)る経済大国が極東の一角に残るのであろう」という有名な評を残した。

 「東京2020」が暴露したのは、三島の言葉に従えば、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」日本の姿である。「何が真であると認識し、何を善きものであると思い、何を美しいものと感じるか」を曖昧にさせてきた付けが、「東京2020」を機に一挙に回ってきているのであろう。(敬称略)

(さくらだ・じゅん)