新旧両文明がせめぎ合う米国

文明論考家、元駐バチカン大使 上野 景文

啓蒙主義派VS伝統主義派
二つの「正義」衝突の宗教戦争

上野 景文

 うえの・かげふみ 文明論考家、アニミズム論考家、元駐バチカン大使、元杏林大学客員教授、元国際日本文化研究センター共同研究員、著書に「バチカンの聖と俗」(かまくら春秋社)、「現代日本文明論」(第三企画)ほか。

 昨秋の大統領選挙以降、「米国の分断」をめぐり、世間がかまびすしい。が、憂慮すべきことなのか。文明・宗教という補助線で見れば、米国はずっと前から「二つ」ある。「啓蒙(けいもう)思想(新文明)」の米国と「伝統的キリスト教(旧文明)」の米国だ。この新旧文明の間のせめぎ合い、昨日今日始まったことではない。

 ただ、この「衝突」たるや、なかなかにダイナミックだ。二つの事情が絡む。第一に、この「衝突」は、単に「文明観」の衝突であるだけでなく、「宗教観」の衝突でもある。大事なことは、「啓蒙思想」は、神に代えて人権、自由などを崇(あが)める「宗教」(いうなら「啓蒙思想教」)だという点だ。衝突の最前線で、新文明派は(例えば)LGBT(性的少数者)擁護こそが正義だとするのに対し、旧文明派は、それは神意にもとるとはねつける。二つの「正義」の激突は「宗教戦争」そのものだ。

新旧両派の勢力が拮抗

 第二の事情は、米国では新旧両派の勢力が拮抗(きっこう)していることだ。ために、衝突は凄(すご)みを増す。西欧と比べると分かりやすい。啓蒙思想の「家元」たる英仏、ベネルクス、北欧では、新文明派が強力であるため、両文明の対決は「控えめ」だ(勝負はついている)。先進国で、伝統派がかくも強いのは、米国をおいてない。

 米国の新文明派は、ニューヨークやカリフォルニア州を根城に、英仏等の啓蒙主義派に伍し得る21世紀的意識を持つのに対し、旧文明派は、広く内陸部を根城に、欧州周辺部の伝統主義に通じる18~19世紀的意識を維持する。この隔絶した時代意識、収束させることは無理だろう。

 このように、旧文明がことのほか強く、なおかつ、新旧両文明がしのぎを削っていることが、西欧にはないダイナミズムを米国にもたらしている(健全なことで、憂慮する理由は見当たらない)。なお、両勢力は、4~8年ごとに交代する形でワシントンを抑える。よって、米国が際限なく右や左にシフトすることは想定し難い。今後4年間は「啓蒙思想派」のお手並み拝見ということだ。

 その「啓蒙主義派」であるが、マイノリティー擁護、女性擁護などに腐心し、中絶擁護やLGBT擁護に走る。これに対し「伝統主義派」は、新文明派は人権概念を「無節操」に拡張して、神意(自然法)に抗(あらが)っていると批判し、近年、中絶などにつき多くの州で巻き返しを図っている。

 では、この米国での文明衝突につき、日本人はどう考えればよいのか。私は「高みの見物」でよいと考える。旧文明(伝統的キリスト教)と新文明(啓蒙思想教)の戦いは、所詮(しょせん)「よそ様の土俵」上の事柄にすぎない。どちらが優勢になろうと、一喜一憂する必要はないし、無理してポジションをつくることはない(日本人は、「何となく啓蒙主義」派なのだから)。

 なお、最近日本国内でもLGBTをめぐり新たな動きが出て来ている。私は、「認めろ」と言う人がかなりの数になれば、これを頑(かたく)なに拒むべきではないと考える。LGBTは(日本人から見て)得手な分野ではないので、先頭に立つことはないが、世界の「空気」を読んで、国際的潮流から大きく遅れないよう留意するのがよい(主体性に欠けるとのお叱りがありそうだが)。

マイルドな日本の怒り

 最後に、世界各処の人権侵害につき考えてみたい。米国や西欧の「啓蒙思想派」は、人権侵害が起きると、それを「絶対悪」として怒り、十字軍顔で糾弾する。政府は国民の「怒り」に押されて文句をつける訳だが、特に中小国にきつい。他方、日本人は「絶対悪」という尺度がもともとないので、「怒り」はマイルド(日本は、福沢諭吉以降、「啓蒙思想」は入れたものの、「啓蒙思想教」は入れなかった)、国民の政府への突き上げも、政府の言動もマイルドだ。

 一般論としてはそうなのだが、ウイグル、チベット等をめぐる度を越した中国の侵害についてはどうか。「何となく啓蒙主義」の日本人から見ても明らかにレッドラインを超えている。大戦時のドイツを彷彿(ほうふつ)とさせる中国の烈政に対しては、隣国として強く懸念を伝え、改善を促すべきだ。日本の名誉のためにも、中国人のためにも、世界のためにも。