佐野常民と日本赤十字社の創設
拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久
西南戦争時、敵方も救護
人道精神を植え付ける契機に
日本赤十字社(以下、日赤)は、明治10(1877)年に起きた西南戦争に際し、佐賀藩出身の佐野常民が敵味方の区別なく負傷者を救護するために熊本洋学校に設立した博愛社に始まる。
常民は、藩校弘道館に学び、嘉永元(1848)年には大阪の緒方洪庵の適塾で学ぶ。そこで大村益次郎をはじめとする幕末・明治維新で活躍する多くの人材と知遇を得る。嘉永2年には、江戸で伊藤玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる。江戸では戸塚静海にも学んでいる。佐賀に帰った常民は佐賀藩精煉方(せいれんかた)頭人(とうにん)となり、藩主の鍋島直正から「栄寿左衛門」の名を授かり、さまざまな理化学研究の指揮を執る一方、海軍創設にも力を注いだ。明治3年に明治政府に出仕してからは政府の要職(大蔵卿、元老院議長、枢密顧問官、農商務大臣)を歴任している。
災害や海難事故に即応
当初、明治政府は、博愛社の規則第4条にある「敵人ノ傷者ト雖(いえど)モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」とする規定、つまり「敵味方の差別なく救護する」という考え方を理解せず、設立を許可しなかった。そこで、常民は、明治政府軍の総指揮官だった有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王に直接設立を願い出る。逆徒(西郷隆盛率いる薩摩軍)ではあるが、天皇の臣民である敵方をも救護する博愛の精神を、有栖川宮熾仁親王は嘉(よみ)し、明治政府に諮ることなく設立を認可した。
ただ、敵味方ともに助けるという思想が、一般兵士にまでこの時は理解されず、双方から攻撃もしくは妨害などを受け多くの死者を出す。常民の行動は、当時、敵の負傷者まで助けるという考えが理解できなかった人々を驚かせ、人道という精神文化の基礎を日本に植え付けるきっかけともなった。
明治19年、日本はジュネーブ条約(赤十字条約)に加入。翌年、博愛社は日赤に改称され、常民は初代社長に就任する。
日赤は、明治21年7月15日に起きた福島県の磐梯山噴火の際には、世界初の災害での救護(それまでは「戦時救護」のみ)活動を行う。明治23年9月16日に和歌山県串本沖で起きたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号海難事故に際しても、救護班を派遣した。この時、日赤は初めて、言葉の通じない外国人に救護活動を行ったが、以後の日赤の活動にとって、貴重な経験の蓄積となった。
日清戦争では、日赤は1400人の救護員と養成済みの看護婦100余人、速成看護婦617人を派遣し、東京や広島の陸軍予備病院で傷病兵の看護に当たる。明治33年の北清事変(義和団事件)には、同30年から建造に着手した「弘済丸」と「博愛丸」の病院船2隻を完成させ、清国の太沽沖に停船させて各国を驚かせた。
明治35年10月、日赤創立25周年式典が盛大に挙行され、常民は最高の栄誉である名誉社員に推薦される。しかし、その2カ月後、常民は人生の大舞台の終わりを見届けるかのように、12月7日、81歳で亡くなった。
日露戦争が起こると、日赤は投降したロシア人捕虜に対して、人道的な待遇を行った。第1次世界大戦でも、中国山東省の青島で捕虜となったドイツ人に人道的な待遇を行っている。
全国に拠点、幅広い活動
現在、日赤は東京に本社を置き、全国47都道府県にある支部、病・産院(病院の大半は災害拠点病院に指定されている)、血液センター、社会福祉施設などを拠点に、国内外の災害救護(災害対策基本法における指定公共機関として、防災業務計画をつくり災害が起きると同時に被災地に医療チームを派遣し、現地で医療行為を行っている)、医療、血液、社会福祉などの事業、救急法の普及、青少年赤十字、ボランティア活動など、幅広い分野で活動している。また、日赤医療センター(東京)、熊本日赤病院、名古屋第2日赤病院、和歌山日赤病院には国際部が併設され、海外の自然災害、難民支援などの救助活動も実施している。
名誉総裁は皇后陛下が務められ、名誉副総裁には、代議員会の議決に基づき、各皇族が就任されている。
(はまぐち・かずひさ)