濱口梧陵の国防意識と「大陸経営論」

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

満州の重要性いち早く指摘
有事に備え民間防衛組織を結成

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 今年は濱口(はまぐち)梧陵(ごりょう)生誕200年ということで、2月27日の本欄で「『稲むらの火』の教訓と濱口梧陵の功績」というテーマで寄稿した。6月には和歌山県広川町で梧陵生誕200年の記念式典などの行事が予定されていたが、新型コロナウイルス感染防止のために延期となった。筆者も広川町で記念講演を行う予定だった。

 梧陵については、「稲むらの火」の逸話の主人公として紹介されることが多いが、若いときから国防力強化の必要性を認識し、安全保障の観点から大陸経営についても自分の考えを持っていたことはあまり知られていない。

明治の徴兵制の基礎に

 嘉永3(1850)年、梧陵は江戸で佐久間象山の門下に出入りし、兵学や砲術を学んでいた。この時期、対外問題が切迫するなか、梧陵は目下の急務は国民を指導啓発して、国家の有事に備えることだと考えていた。嘉永4年に広村(和歌山県広川町)に帰郷すると、同年8月、自警団「広村崇義団」を結成する。安政2(1855)年には「浦組」を組織して、若者に銃を使っての教練を行い、国家の有事に備えようとした。「広村崇義団」と「浦組」は民間防衛のはしりとも言えるものであり、民間防衛の先進国スイスよりも先に梧陵が和歌山で民間防衛の組織を結成したことになる。

 紀州藩の藩政改革でも、梧陵は改革の柱の一つとして「農兵制」を提案している。農民を主体とする徴兵制を採用し、藩内の各郡に農兵1個中隊、さらに予備を含め3個中隊を配備するというものだった。梧陵の「農兵制」は、明治政府の徴兵制の基礎となっていった。

 梧陵に関する資料や文献のなかで、大陸経営について触れているのは、大正9(1920)年に濱口梧陵銅像建設委員會(かい)の依頼で、杉村広太郎(楚人冠)が編纂(へんさん)・執筆した『濱口梧陵傳(でん)』に詳しく書かれている。以下、本書の内容を現代語訳しながら紹介する。

 「今や支那の地は欧州列強が覇権を争う中心地となろうとしている。日本と隣接し、日本と最も密接な関係を持つ支那を欧州人の手に任せてしまうのは、日本の恥辱であり、日本の国運を危険に晒(さら)す。元来、支那は革命の国で、その支配を代えること数え切れないほどである。支那における治国平天下の道は天道に準拠することにあるとし、政治とは人が天に代わって天の道を行うものだとしている。

 日本のように、建国の基礎が確固として不動で冒されないものとされているのとは雲泥の差がある。今や欧州列強は虎視(こし)眈々(たんたん)と支那を狙っている。これをうち捨てておけば如何(いか)なる由々しい事態が起きるかもしれない。有為の人は必ず欧州人に先立って、支那を経営する事業を企画しなくてはならない。

 目下、支那における大勢を見ると、清朝はすでに衰運に傾き、内憂外患が次々に起きている。次に来るのは反乱と破壊である。しかし、民の好むところに従って導き、支那を治めるのは、何が必要か。ただし、支那の地を分割占領するようなことは至難の業であるから、妄(みだ)りに分割占有はしてはならない。

 まずは支那を満洲、北清、四川湖江、南清の四つの大きな区域に分けて考察すると、日本人が最も力を入れるべき区域は、まず満洲で、日本人みずから満洲を経営してロシアの南下に対する防衛を行い、さらに日本の勢力をここに植え付けるべきである」

日本の近代史を“予言”

 以上が梧陵の大陸経営についての一部である。明治維新直後の時期に、早くも支那の地域に着眼し、こうした卓見を披歴した日本人はいただろうか。明治政府の基礎を築き、歴史上に名を残している偉人は数多くいるが、梧陵と同じような考え方を持っていたのは誰一人いないだろう。梧陵は、まず欧州列強が支那に侵入するのを見て、日本の国運の将来を憂慮し、「日本人が最も力を入れるべき区域はまず満洲である」と言っている先見性は凄(すご)い。

 その後、数十年が経過し、日本は日清・日露の両戦争に突入していった。梧陵の「大陸経営論」は、その後の日本の近代史を予言したかのようである。

(はまぐち・かずひさ)