今求められる魂のホームベース

名寄市立大学教授 加藤 隆

豊かな「我―汝」関係を
神仏の「呼びかけ」願う人間

 流行歌はその時代の人々の願望を映すと言われる。流行歌研究によると、年代によって特徴的なフレーズが見られるという。1970年代は「花が咲く」「雨が降る」、80年代は「気がする」「瞳を閉じる」「海を見る」が多く、90年代は「想(おも)いが溢(あふ)れる」、2000年代は「声を聞く」、10年代は「世界が回る」が多いのだという。フレーズを眺めると時代を通底する真実が隠れている気がする。それは、想いを寄せる誰かがいることである。人間はそのような人の声を聞きたいのであり、たとえ会えなくても瞳を閉じて出会いたいのであり、それによって想いを溢れさせたいのだ。

日本人の独自の宗教性

 一木一草にも仏性が宿るという仏教の教えは、長い歴史の中で日本人の生活習慣にまで溶け込んでいる。また、すべてのいのちは縁によってつながっているという生活信条は、独自の宗教感覚を育んできた。たとえば、全身麻痺(まひ)の詩人である星野富弘に『菜の花』という詩がある。「私の首のように 茎が簡単に折れてしまった しかし 菜の花はそこから芽を出し 花を咲かせた 私もこの花とおなじ水を飲んでいる おなじ光を受けている」。この詩には、梵我(ぼんが)一如(いちにょ)とでも形容できるような、自分は世界と一体なのだという作者の感動が溢れている。

 このように、自分が大いなる自然と一体なのだと捉え、尊敬の念をもっていのちあるものに接する態度こそが、世界に類を見ない日本の伝統文化を築き上げてきたことは論を俟(ま)たない。しかし、人間の本質を考えるとき、何か物足りなさもまた覚えるのである。先ほどの流行歌ではないが、想いを寄せる人格的存在が不在なのである。

 そのことに関わって、関係性ということを重んじた哲学者のM・ブーバーを思い出す。人間の真の喜びや生きがいは、「我―それ」関係ではなく、「我―汝(なんじ)」関係の中でこそ成立するのだと彼は喝破する。今日、「我―それ」関係は世間に溢れている。利用価値や損得勘定で対象を見る態度のことである。それは、売買の対象としての自然界であり、オレオレ詐欺をしてでも儲(もう)ければよいのであり、組織の中で人間も「代えのきくコマ」に貶(おとし)められている。しかし、精神的存在である人間は、そのような仕打ちに耐えられないのだ。この「我―汝」の関係について、「呼びかけ」というキーワードを用いて考えてみたい。

 一つは親鸞の浄土真宗にみる「阿弥陀(あみだ)仏の呼びかけ」である。真宗は絶対他力を信仰の土台とする。親鸞は語る。凡夫が阿弥陀仏の名を唱える「なむあみだぶつ」(念仏)は、「すべてを救い取る(摂取不捨)との阿弥陀仏の呼びかけをいただいて、凡夫が称(たた)えているものに他ならない」と。ここに、すべての人間を救い取る阿弥陀仏の「呼びかけ」という姿で、「我―汝」関係が浮かび上がってくる。このことを、京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者である甲斐和里子は次のような歌に詠んでいる。「み仏を よぶわがこえは み仏の われをよびます み声なりけり」。

 もう一つは聖書に見る「神の呼びかけ」である。旧約聖書ではアブラハムが神に呼ばれる。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」。ここで、神は「あなた」と声をかけ、アブラハムという一人の人格に向かって呼びかけているのである。また、新約聖書では、復活したキリストが悲しみに沈んでいたマグダラのマリアに呼びかける印象的な場面がある。「イエスが、“マリア”と声をかけると、彼女は振り向いてヘブライ語で“ラボニ”と叫んだ。先生という意味である」。ここにも人格として名前で呼ばれた者の幸いを見るのである。

不可欠な人格的出会い

 結局は、人格的出会いがなければ、人間は真の意味で生きてはいない存在ではないだろうか。確かに我々の社会はモノが溢れ、快適な生活を享受し、世界に冠たる先進国と自負している。しかし、そこに人格的出会いという土台がないならば、根源的には窒息状況に陥ってはいないだろうか。かつて、日本を訪れたマザーテレサは、「人間にとって最も大切なのは、人間としての尊厳を持つことです。パンがなくて飢えるより、心や愛の飢えの方が重病です」と語った。人間がBody Mind Spirit の存在ならば、心や愛の飢えを満たす魂のホームベース (本拠地)に心眼を向けるべきではないだろうか。そして、そこから紡ぎ出される「我―汝」関係を豊かにすることこそが、現代人の使命ではないだろうか。

(かとう・たかし)