謎深まるナワリヌイ氏暗殺未遂事件
日本対外文化協会理事 中澤 孝之
疑われるクレムリン関与
情報機関の犯行としては稚拙
プーチン政権の汚職疑惑を長年告発し、政権批判の急先鋒(せんぽう)、ロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏(44)が8月20日、西シベリアのトムスク空港からモスクワに向かう飛行機内で突然意識を失ったため、飛行機がトムスク西方の都市オムスクの空港に緊急着陸。ナワリヌイ氏は病院に緊急搬送された。その後、家族の強い要請で22日、ベルリンに移送。
ノビチョク系の毒物か
シャリテ・ベルリン医科大学病院での治療を踏まえて、ドイツ政府は9月2日、彼が軍用神経剤ノビチョク系の物質で襲撃されたと発表したが、最初に入院したロシアの病院は、毒物はなかったと主張した。7日に昏睡(こんすい)状態を脱したナワリヌイ氏はリハビリの後、32日ぶりに22日退院した。しばらくの間ドイツに留まり、通院する予定だ。
ちなみに、ノビチョクといえば、セルゲイ・スクリパリ親子の事件が思い出される。スクリパリ氏(69)はロシアの元情報機関職員で、米露のスパイ交換で米側に引き渡され、2010年、英国に亡命。18年3月4日に英ソールズベリーのショッピングセンター前のベンチで娘と共に倒れていた。彼らはノビチョクに触れた疑いが強かった。治療の結果、スクリパリ親子は健康を回復、退院したが、2人は英当局に匿(かくま)われ、今なお行方不明である。
ナワリヌイ氏の西シベリア訪問は、9月11~13日に行われた統一地方選挙(知事選や地方議会選)で、トムスクなど地方の与党「統一ロシア」系候補の当選を阻止し、野党系候補を支援する目的があった。同氏の「賢い投票」キャンペーン、つまり、与党に対抗できる可能性が最も高い候補者に投票するよう有権者に呼び掛ける戦術が奏功して、訪問したシベリアのトムスクやノボシビルスク、欧州部のタンボフの市議選で、野党候補が議席を獲得、与党はこれら3市の市議会で過半数に届かず、敗北した。
ナワリヌイ氏暗殺未遂事件から1カ月以上過ぎた現在なお、事件は謎に包まれている。当初は、ナワリヌイ氏がトムスク空港のカフェで飲んだお茶に毒物が入っていた疑いが持たれたが、その後、同氏の陣営は9月17日、同氏が宿泊していたホテルに残された飲料水のペットボトルを回収してドイツの研究所に送ったところ、ノビチョクの痕跡が検出されたと発表した。情報機関の犯行であれば、そうした証拠を残したりするのか疑問だ。
ところで、9月3日付の有力英紙「ガーディアン」によれば、プーチン大統領はこの20年間、公の場でナワリヌイ氏の名前を言ったのはわずか一度だけで、それ以外は直接名指しすることなく、代わりに「劣った政治家」「ある特定の政治勢力」「あなたが言及した人物」あるいは「例の男」「この紳士(ガスパジン)」などと呼んだ。そのただ一度というのは、13年のあるパーティーでのこと。ジャーナリストから、ナワリヌイ氏の名前にまつわる「沈黙の掟(おきて)」(omeruta)は意図的なものなのかと聞かれたプーチン大統領は「いや、どうしてだ? アレクセイ・ナワリヌイは反政権運動のリーダーの一人だ」と答えたという。
また17年のあるとき、直接、ナワリヌイ氏の名前を言わせようとしたところ、プーチン大統領は言明した。「あなたが今、名前を挙げた人物はサーカシビリと同じだ。サーカシビリのロシア・バージョンにすぎない」と。サーカシビリとは、ジョージア元大統領でウクライナに亡命したミヘイル・サーカシビリ氏(52)のことだ。
同紙によると、ドミトリー・ペスコフ大統領報道官も含めて政府の高官たちはプーチン大統領のこの「掟」に従っている。ロシア政府がなぜ、ナワリヌイ氏の名前にそこまで敏感になっているのかについて同紙は「ロシア政府は彼を倒すためには、彼の存在を公の場から消すのがベストだと考えているから」と指摘した。
国際的非難避けたい露
ナワリヌイ氏が当局の腐敗を執拗(しつよう)に暴露してきたことが、プーチン支持率に深刻な打撃を与えたため、プーチン政権が同氏を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌悪しているのは確かだが、政権が今、厳しい国際的非難を承知でナワリヌイ氏の毒殺という過激な手段に訴える必要があるのかは疑わしい。地方選挙戦での与野党の確執と関連した反ナワリヌイ・グループによる襲撃事件という見方もある。クレムリンの関与が強く疑われたまま、事件の真相解明には至っていない。
(なかざわ・たかゆき)