ディズレーリの人種優越論
獨協大学教授 佐藤 唯行
政界の反ユダヤ主義に対抗
ロスチャイルド家と互酬関係に
ベンジャミン・ディズレーリ(1804~81)はユダヤ出自の公職者の中で最も著名な人物だ。立身のため、表向きは英国国教会に改宗したとはいえ、彼の人生は「ユダヤ人の人生」と呼ぶに値するものだった。旺盛なユダヤ人意識を持ち続け、それを公言して憚(はばか)らなかったからだ。
彼が首相の座に登り、女王の愛顧を得て伯爵に叙せられるために、ユダヤ出自は英国という国では致命的障害にはならなかったのだ。
しかし幾多の偏見を乗り越える必要があった。政治家志望の野心的な若者にとり、必要なことは後援者探しだ。そこで社交界に潜り込み、色男の小説家として振る舞い、裕福な未亡人たちの歓心を集めたのだ。彼の文才、男ぶりは、出自に伴うハンディをはね返す武器となったのだ。社交界では異人との交際はファッションとしてもてはやされたからだ。
人種論が流行した時代
ところが選挙に立候補するや、状況は一変する。ユダヤ出自が攻撃材料にされてしまうのだ。演説会では心無い野次が飛び、新聞紙上では「金貸しシャイロック」の姿をした彼の漫画が掲載されたのだ。議席争いに勝つため対立候補たちは、人々の意識下に蠢(うごめ)き始めた反ユダヤ感情を呼び覚まそうとしたのだ。
それは中世キリスト教会が広めた、宗教の違いに根差す反ユダヤ主義とは別物だった。キリスト教に改宗した後も、当該人物をユダヤ出自の故に執拗(しつよう)に排撃し続ける、新たなタイプの反ユダヤ主義だった。後のナチズムにおいて完成される、人種を根拠とした近代アンチ・セミチズムと言えよう。
これに対し彼が採った対抗策は注目に値する。寛容の精神を説いたり、自身が「英国人プロテスタント」であることを証明したりする代わりに、誇張された「ユダヤ人種優越論」を唱えることで対抗したのだ。ユダヤ人は英国民のためにふさわしいリーダーシップを行使できる「選ばれし人種」であると主張。英国社会の諸制度はユダヤ的価値観に根差すと説いたのだ。
自らのイメージづくりに人種論を持ち出したことは、当時、胎動を始めた欧州思想界の鬼子、近代アンチ・セミチズムに何がしかの根拠を与える結果となってしまったのだ。つまりディズレーリは近代アンチ・セミチズムの最初の被害者であると同時に、その増幅に一役買ってしまった人物と言えよう。
現代人からすれば妄想と思われる人種論にまみれていたのは、彼ばかりではなかった。当時、欧州に生きた多くの知識人も、人種こそ歴史や政治を動かす原動力と見なしていたのだ。ディズレーリが政界の反ユダヤ主義に対抗するために「ユダヤ人種優越論」を捏造(ねつぞう)したことに最初に注目したのは、政治学者ハナ・アーレントだった。
その後、英近代ユダヤ史のセサラーニ教授は、ディズレーリが「ユダヤ人種優越論」を宣伝し始める時期が、ロスチャイルド家と親密な関係を築き始める時期と一致している点に着目し、新説を唱えた。「ユダヤの誇りを強く抱くロスチャイルド家に取り入るため『優越論』を唱え始めた」という説だ。
自分は改宗者にありがちなユダヤ教に対し否定的な見解の持ち主ではなく、「ロスチャイルド家の宗教と人種」に好感を抱いていることを積極的にアピールする必要があるとディズレーリは考え、その通りに実行したのだ。こうして何とか受け入れてもらい、互酬関係を築いていくのだ。議会で得た情報をロスチャイルド家に教え、ロスチャイルド家は海外駐在員から得られる極秘国際情報をディズレーリに伝えたのだ。
また政治資金提供についても、1862年に少なくとも2万ポンドの献金を同家から受けたことが確認できる。特に当主ライオネルとは最も親密な間柄で、屋敷を長年、自宅代わりに使わせてもらったほどだ。79年、ライオネルの死に打ちのめされたが、3人の息子たちは父の「旧友」のもとに糾合したのだった。
スエズ運河買収に成功
ディズレーリは晩年の10年間、心底、ロスチャイルド家の代理人であったと言える。両者の共同作業の最高傑作が、宿敵フランスの鼻を明かし、大英帝国のアジア進出を加速させた75年のスエズ運河買収であったのである。
(さとう・ただゆき)











