鈴木貫太郎に学ぶ首相の重責

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

昭和天皇から厚い信頼
大東亜戦争幕引きの立役者

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授
濱口 和久

 阪神・淡路大震災の時の村山富市首相、東日本大震災の時の菅直人首相、今回の武漢ウイルス対応に追われる安倍晋三首相。リーダーは常に孤独であり重要な決断を迫られる立場にある。そして、歴代の首相の中でも、大東亜戦争を終戦に導いた鈴木貫太郎の重圧は並大抵ではなかっただろう。本稿では鈴木貫太郎を紹介し、首相の重責について考えてみたい。

称賛された武士道精神

 鈴木貫太郎は昭和史の中で歴史に残る出来事に2度もかかわった数少ない人物の一人である。一つは昭和11(1936)年に起きた二・二六事件であり、もう一つは冒頭に触れた昭和20年8月の終戦である。

 鈴木は慶応3(1867)年12月24日、関宿藩士の鈴木由哲・きよ夫婦の長男として現在の大阪府で生まれた。明治20(1887)年に海軍兵学校を卒業し、翌年には海軍少尉として砲艦「高雄」に乗艦。日清戦争では水雷艦長として、後世に残る威海衛の夜襲戦闘で勇名をはせた。続く日露戦争では、第4駆逐隊司令官として日本海海戦でロシアのバルチック艦隊の戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈するなど大きな戦果を挙げ、勝利に大きく貢献した。その後、水雷学校長や海軍次官を経て、大正12(1923)年に海軍大将に昇進すると、連合艦隊司令長官、続いて海軍軍令部長の要職を歴任した。

 昭和4年にはその人格を高く評価され、予備役編入とともに侍従長に任じられた。昭和天皇のそば近くに7年余りの長きにわたって仕えることになったが、その間に起こったのが二・二六事件だった。

 鈴木は安藤輝三陸軍大尉率いる一隊に襲われ、首相官邸で4発もの銃弾を浴びたが、たか夫人の機転で奇跡的に一命を取りとめた。その後、枢密院議長を務めていた鈴木は昭和20年4月、小磯国昭内閣の総辞職を受けて急遽(きゅうきょ)、首相に指名される。就任時の年齢は歴代首相で最高齢の77歳だったが、戦争終結に向けての大役をまっとうできるのは鈴木しかいないという若槻礼次郎、岡田啓介、近衛文麿ら首相経験者の強い推挙と、昭和天皇みずからの強い要望を受けてのことだった。

 ここで鈴木のエピソードを一つ紹介したい。首相に就任した直後の4月12日に米国大統領のルーズベルトが死去したことを知ると、同盟通信社を通じ、「私は深い哀悼の意を米国国民に送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、米国の日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません」という談話を世界へ発信している。これに対し、ドイツのヒトラーは鈴木とは対照的にルーズベルトをののしった。

 米国に亡命していたドイツ人作家のトーマス・マンは、英国BBCで「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題する声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛している。鈴木の弔意表明が米国に対する「終戦工作の一貫」だったかどうかは定かではない。しかし、敗色が濃厚な中、日本人としての誇りを世界に示した態度であることは間違いないだろう。

 8月に入ると、6日に広島、9日には長崎に原爆が投下され、同日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して参戦した。戦局が絶望的になるなか、終戦工作に奔走する鈴木は「天皇の名の下に起こった戦争を終わらせるには、陛下ご自身の聖断をいただくよりほかない」と考えていた。

 9日深夜から行われた最高戦争指導会議(御前会議)では、連合国のポツダム宣言を即時受諾すべきだとする東郷茂徳外相らの意見と、条件付き受諾の阿南惟幾陸相らの意見が対立。鈴木は10日午前2時ごろ、「誠に以っておそれ多い極みでありますが、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと存じます」と言葉をしぼり出し、玉座の前に進み出た。これを受けた昭和天皇は「外相の意見に賛成である」と述べられた。ここにポツダム宣言受諾が国の方針として決定された。

終戦直後に内閣総辞職

 15日正午、玉音放送がラジオで流された。この日の早朝、表向きは主戦論を唱えつつも鈴木の終戦工作に気脈を通じていたといわれる阿南は自刃。鈴木も同日、昭和天皇に辞表を提出し、鈴木内閣は総辞職した。

 戦後、鈴木は戦犯に問われることもなく、昭和23年4月17日、80歳で亡くなった。遺品の多くは千葉県野田市の鈴木貫太郎記念館に展示されている。鈴木内閣はわずか4カ月余の短命内閣ではあったが、大東亜戦争の幕引きを見事に成し遂げた「終戦内閣」として、昭和史にしっかりと刻み込まれている。

(はまぐち・かずひさ)