「稲むらの火」の教訓と濱口梧陵の功績

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

津波警戒と早期避難訴え
将来を見据えた復旧・復興策

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授
濱口 和久

 今年は濱口(はまぐち)梧陵(ごりょう)生誕から200年を迎える。梧陵が生まれた和歌山県広川町では「濱口梧陵生誕200年未来会議」を発足させ、6月に梧陵をテーマにしたシンポジウムなどが予定されている。梧陵は、安政元(1854)年11月5日に広川町(紀伊国有田郡広村)を襲った安政南海地震津波により被災した人たちへの生活再建支援や、将来ふたたび襲来する恐れのある津波から村を守るため、広村堤防の建設を行った人物として、さらには、「稲むらの火」の逸話の主人公として、広川町の人々によって綿々と語り継がれてきた。毎年11月には、広川町で「津浪祭」も開催され、梧陵の功績を称(たた)えている。

 梧陵は、勝海舟や福澤諭吉などの同時代を代表する人物とも交友を深め、ヤマサ醤油(現・ヤマサ醤油株式会社)7代目当主でもあった。当主を引退すると、明治政府の初代駅逓頭(えきていのかみ)(郵政大臣)や和歌山県議会初代議長を務めるなど、政治家としても活躍した人物である。

「世界津波の日」へ繋がる

 「稲むらの火」とは、安政南海地震津波に際して、広村で実際にあった史実をもとにして、地震後の津波への警戒と早期避難の重要性を説いたもので、昭和12(1937)年から昭和22年まで小学5年生の国定教科書に採用されていた。教科書から消えてからの梧陵は、全国的にはあまり有名ではなかったが、平成23(2011)年3月11日に起きた東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)で甚大な津波被害が出たことで、津波から人々を救ったリーダーとして注目されるようになる。

 梧陵を主人公とした「稲むらの火」の逸話から、私たちは防災上の教訓(「自助」意識の形成や災害記憶の継承)を学ぶことができる。突如として起きる非常事態に如何(いか)に対応すべきか。津波襲来時の梧陵の的確な判断や勇気ある行動は、現代の指導者やリーダーにとっても参考になる。

 日本政府は津波からの復興や国民の津波防災への意識向上のため、平成23年6月、「津波対策推進法」を制定する。そして、「稲むらの火」の逸話にちなみ、安政南海地震津波が起きた旧暦の11月5日を「津波防災の日」と定めた。続く、平成27年3月、宮城県仙台市で国連第3回世界防災会議が開催され、日本政府から「津波防災の日」を「世界津波の日」とするように各国に働き掛けを行った。その結果、同年12月22日の第70回国連総会本会議において、国連加盟国すべてが賛成し、「世界津波の日」が制定された。梧陵が村人の命を救った11月5日は、このときから「世界津波の日」として世界の人々に広く認められるようになった。

 梧陵の取り組みは大きく分けると二つに整理できる。一つは「地域防災力の向上」である。もう一つは「将来を見据えた復旧・復興対策」である。なお、梧陵の取り組みについては、大正9(1920)年に濱口梧陵銅像建設委員会の依頼で、杉村広太郎が編纂(へんさん)・執筆した『濱口梧陵傳(でん)』が詳しい。

 現在、日本には地域防災力を担う組織として、消防団や自主防災組織などが存在する。消防団は地域の住民で構成され、普段は別の職業を持ち、大規模な災害が起きると、自衛隊や警察、消防だけではすべてをカバーできないなか、地域防災力の中核的存在となっている。梧陵は、嘉永4(1854)年8月、広村の青年を集めて「広村崇義団」を結成している。この組織は、地域防災力を担うことを目的としたものではなく、国家の有事に備えて結成したものであったが、広村にとっては、津波の襲来は国家の有事に匹敵する事態であり、崇義団のメンバーは梧陵の指示に従いながら、村人を津波から守るために行動している。まさに消防団員と同じ役割を担ったのである。

防災対策のお手本示す

 梧陵が私財を投じて行った広村の存亡をかけた救済策(人口流出対策、緊急雇用対策、税金減免対策)は、現在の災害時の復旧・復興対策にも共通するものであり、本来は国や地方自治体が行うべきものだ。また、広村堤防の建設は、梧陵が50~100年先を見据えた「広村強靭(きょうじん)化」の事業であり、大正12年に高潮が襲来したときには、広村堤防は高波に耐えながら、高潮が広村を襲うのを防いでいる。昭和21年の南海地震津波の襲来でも広村を守った。そして、現在も広村堤防は、広川町を津波から防護するための海岸保全施設として機能している。

(はまぐち・かずひさ)