ユダヤの輜重隊「シオン騾馬隊」
獨協大学教授 佐藤 唯行
祖国再建への道筋を開く
英軍の一員、第1次大戦で活躍
ユダヤ人の中で祖国再建に邁進(まいしん)する者をシオニストと言う。シオニストにとり好機到来となったのが第1次大戦だ。ドイツ・オーストリアと同盟して英国に敵対したトルコ帝国が負け組となれば、トルコ支配のパレスチナに英国の後ろ盾の下、ユダヤ人国家再建の道筋が開けるやもしれぬ。
そう考えたシオニスト指導者トルンペルドール等は英軍の一員として戦うユダヤ人部隊の設立許可を求めたのだ。「ユダヤ人国家」の建国承認を取り付けるためには「ユダヤ人だけの部隊」を作り武功を立てる。これが英世論を味方にする近道と考えたからだ。しかし当時の法律は英国籍者と英植民地人以外が英軍内で戦闘任務に就くことを禁じていた。そこで考え出された法の抜け道が「戦闘に直接参加せぬ輜重(しちょう)隊」の設立だった。
富豪の協力期待した英
募兵はエジプトでなされた。ユダヤ難民が蝟集(いしゅう)していたからだ。大半はロシアからパレスチナへ移住した若いシオニストで、トルコの圧政を逃れ来た者たちだ。当然「トルコ憎し」の思いは強かった。彼らの指導者トルンペルドールは「祖国解放の先駆けとして血を流して戦おう」と熱弁を振るい、入隊を呼び掛けた。これに応じたある若者は「神の名においてイスラエルのために戦う覚悟はできております」と語り、志願書に署名したのだ。
こうして発足したのが対トルコ戦線で活躍するユダヤの輜重隊、シオン騾馬(ラバ)隊だ。前線の英軍に軍需品を運び、帰路には負傷兵をラバの背に乗せて戻る任務であった。英史上初のユダヤ部隊設立に気を良くしたユダヤ大富豪が資金面で戦争協力してくれることを英軍上層は期待したのだ。また離散ユダヤ人が古代の祖国を取り戻すことを宗教的理由から応援するキリスト教シオニストによる戦争協力も期待したのだ。
結果、隊長に任命されたのは名高い在英キリスト教シオニスト、パターソン中佐だ。中佐は古代ユダヤの英雄に心酔し、いつの日にかユダヤの軍勢を指揮したいと夢想する人物で、隊の記章に「ダビデの星」を選んだのも彼の発案だった。隊長、副隊長を除く13人の将校の内8人、562人の兵全員がユダヤ人だった。
1915年4月、ガリポリの戦場へ向け750頭のラバと共に船出したのだ。そこはバルカン半島東南端。イスタンブール侵攻には避けて通れぬ要衝だ。任務は熾烈(しれつ)を極めた。70㌔の重荷をラバの背に載せ、岩だらけの坂道を人とラバが一列縦隊でゆっくり進むのだ。敵の砲火を避ける術(すべ)はなかった。くだんの若者は2頭のラバの手綱を引き、弾薬を運んでいた。目的地に辿(たど)り着く直前、榴散弾(りゅうさんだん)の破片を浴びたが手綱を放さず、ラバもろとも味方の塹壕(ざんごう)に転がり込み任務を全うし、その後、絶命したのだ。
騾馬隊は公式には銃撃戦への参加は禁じられていたが、自衛のため小銃、弾薬は支給されていた。それ故、傍観を許さぬ戦場の現実は隊員たちに禁令を破らせたのだ。塹壕にこもる友軍歩兵が敵弾に倒れる中、騾馬隊員が加勢して銃撃に加わり、トルコ兵を撃退する場面も随分あったのだ。被害は甚大で15年末、撤退命令が下された時、稼働人員は将校7人、兵126人まで激減していた。
武功への評価は高く、遠征軍司令官ハミルトン将軍は「塹壕で戦う兵士より一層困難な状況下で勇気を示した」と称賛している。半面、日記の中では「騾馬隊は英国の大義(この文脈ではトルコ打倒)に加わるようユダヤ大富豪を誘い出す餌の役割を果たしている」と冷徹な認識を示している。
このような軍上層の体質を鑑みれば、戦死者の遺族に対する慰労金の支給額が英国人兵士と比べ、不当に減額されていたとしても驚くに値しない。パターソンは増額を求め英下院や新聞社に訴え続けた。陸軍省が3年分の慰労金支払いに同意するまで訴えをやめなかった。
中東最強の軍の始祖に
最後にシオン騾馬隊の歴史的位置付けだが、ユダヤの軍隊が古代ローマ時代に消滅して以来、1800年ぶりに復活した部隊だったと言えよう。また騾馬隊の生き残りの中には戦後、1920年に設立されたパレスチナ在住ユダヤ人の民兵隊、ハガナ(「防衛」の意味)の中心メンバーとなることで、今日、中東最強を誇るイスラエル国防軍の始祖となる者も現れたのである。
(さとう・ただゆき)






