急務のエリート養成 日本に欠けた「強きを伸ばす」視点
学力的地盤沈下の恐れ
いま各国の大学で、優秀な学生を選別し、その資質をさらに伸ばすための施策が進められている。彼らをチャレンジ精神に溢(あふ)れた国家・社会的なリーダーに養成できることが期待されるからである。その施策とは、学生エリート養成プログラムの開発である。プログラムの修了者には、それなりの称号が与えられる。
この施策は、アメリカ、カナダ、オランダ、中国等10以上の国で成されてきた。実施例はアメリカが最も多く、600弱以上の大学でこのプログラムが稼働している。オナーズプログラムと呼ばれることが多い。
一方、日本では、実施大学数ははるかに少ない。グローバル化に向けた学習が進む今日、このままでは、優秀学生・生徒の海外流出を招く。日本全体で学力的な地盤沈下を引き起こすことにもなりかねない。
そこで、日本においてエリートを含む人材の養成をどう計らうべきかを、養成措置の均衡という視点で探る。
かつて、ある大学教員が「優秀な学生は放っておけばよい」と述べたことがある。そのときの状況から、「彼らなら、自分自身で“知”の実践を展開できる」という積極的な意味と理解された。しかし、以下の二つの疑問が生じたのである。
①通常の講義、実験、実習を通して得られる内容を“知”と称するものとすると、学生が修得すべきは、“知”だけで十分なのか。
②学生エリートは、学力的には“高”のグループに属する。この場合、“低”と“高”に養成措置の均衡が図られているのか。
まずは、①である。人材の成長を樹木の成長に対応させてみる。先に述べた“知”の学びは、全般にその学習成果を評価しやすい。だから、樹木の地上部分に相当する。しかし、もし地上部分のみの教育に専念すると、根の浅い不均衡な人材となる。その結果、根の深い樹木と張り合ったり強風にさらされたりすると、簡単に倒れる。地中部分の養成が如何(いか)に重要であるかが理解できるはずである。「評価が困難」と「不要」とは別問題なのである。
弱者を助ける均衡突破
つぎは、②である。学力の“低”に関しては、その資質に合わせた養成に教育研究の関心を寄せることが多い。しかし、“高”に焦点を合わせた関心は、ずっと少ないように思われる。その関心が高まれば、均衡状態に近づくことになる。
特に、学生エリートは“超高”に属する。そして、“超高”に対しては、“低―高”の均衡を突破した不均衡があってもよい。“超高”は、国家・社会レベルでの予期的リーダーであるので、その養成に莫大な公的資金を投じるのである。国際競技を目指すトップアスリートに資金を投じるのと同じことである。
しかし、そのような施策は、何か学力的強者だけを優遇し弱者を見捨てているようにも見える。だが、その見方は誤りである。むしろ逆である。古い格言「弱きを助け、強きを挫(くじ)く」を一部借用するのなら、「弱きを助け、強きを伸ばす」ための均衡突破なのである。
その「強きを伸ばす」ための施策の骨格に、国家・社会的使命感やチャレンジ精神の涵養(かんよう)を含めるのである。そして、強者に対して、使命感に基づいた意思や行動がほぼ無意識に現れるように計らう。すると、弱者も弱者なりに努力を積み重ねる素地が整うことになる。長期の視野で眺めれば、社会全体の資質を高めていることになるわけである。