250年の伝統が息づく「曳山子供歌舞伎」観衆を魅了
石川県小松市で上演、稽古の成果を悔いなく堂々と
日本三大子供歌舞伎の一つに数えられる曳山(ひきやま)子供歌舞伎が、今月11日から13日まで、石川県小松市で演じられた。役者は小学3年生から中学1年生の女子ばかり。2カ月前から稽古(けいこ)を重ね、本番では独特の台詞(せりふ)回しや所作を見事にこなし、力いっぱいの芝居で観衆を魅了した。(日下一彦)
町人文化と彼らの財力や心意気、職人の技が伝統に
プロが演技指導、裏方の大人とも息ピッタリ
曳山子供歌舞伎は市内の菟橋(うはし)神社と本折(もとおり)日吉神社の春季例大祭「お旅まつり」の最大の呼び物だ。歌舞伎奉納の歴史は古く、記録では明和3年(1766)にさかのぼり、実に250年を超える歴史がある。旧市街で曳山を持つ八つの町会が、毎年2町会ずつ持ち回りで受け継いでいる。今年は寺町と八日市町が当番町として準備してきた。
上演は各町会の辻(つじ)や交差点、神社前で行われ、期間中それぞれ9回上演した。舞台の曳山は高楼式で若衆が引っ張って移動する。漆金箔(きんぱく)に彫刻、天井絵などが施され、絢爛(けんらん)豪華だ。その上で武士や町娘などに扮(ふん)した子供役者たちが、1時間余り熱演した。
寺町の出し物は、父親の敵討ちに向かう兄弟の姿を描いた「五郎十郎譽(ほまれ)の仇討(あだうち) 蝶千鳥(ちょうちどり) 曽我物語 中村閑居(かんきょ)の場」。見せ場は敵討ちの前夜、離れ離れになっていた3兄弟がそろい、十郎と五郎が末の弟・禅師坊に、残される母の面倒をしっかり見てくれと頼む。義太夫の語りと三味線に合わせて、張りのある声で情感たっぷりに演じ切り、観衆から盛大な拍手と声援を受けた。
兄弟の母を演じた川島陽菜佳さん(12)=中学校1年=は、「みんなで力を合わせて演じることができました。みなさんに喜んでもらってとてもうれしい」と振り返っていた。演技指導はプロの振付師・市川団四郎さんが担当し、「みんな声も大きく、分かりやすい台詞でしっかりやれた。楽しんでもらえたのではないか」と話し、子供役者の労をねぎらっていた。
一方、八日市町の演目は明智光秀を題材にした明智一族の悲劇を扱った絵本太功記(たいこうき)十段目『尼ヶ崎の段』」。本能寺の変で主君を討った明智ならぬ武智光秀と、その一家の物語だ。ちなみに同町では、上演当番のたびに披露しており、いわば“お家芸”の演目。姉や母、従姉が経験者というケースもある。
村中希中さん(5年生)は、光秀の母・皐月(さつき)と、光秀を倒しに来る加藤虎之助正清の一人二役、それも男女の役を演じ切った。謀反を起こした光秀を許すことができず、自らの命を懸けて息子を諭す気丈夫な女性と、勇猛な武将との異なる役柄とあって、それぞれ声の出し方や所作を身に付けるため奮闘した。
大役を終えて村中さんは、「練習してきたことをすべて出し切れました」と晴れ晴れとした表情だった。曳山の上では、聴衆の反応が舞台下から直(じか)に伝わるだけに、やりがいは格別のようだ。「歓声が力になった。悔いのない演技ができました」との感想も聞かれた。
子供役者は2月に選ばれ、3月に配役が決まった。近年は少子化で女子の数が減り、旧市街以外から選ばれることもある。今年は寺町5人、八日町6人が決まり、台詞合わせの後、本番の2週間前から、連日のように厳しい稽古に励んできた。スケジュール表を見ると、平日は2時間半、土曜、日曜は休日返上で約6時間、みっちりと埋まっていた。
小松市は弁慶と義経で知られる勧進帳の舞台となった安宅の関があり、「歌舞伎のまち」で知られている。そもそも小松の町が発展したのは寛永17(1640)年、加賀藩3代藩主・前田利常が隠居して小松城に入ってから。武士とその家族、商人、職人などが住み、1時は1万人近い城下町を形成し、今に伝わる産業が発展した。
当時は絹織物が大きな富をもたらし、子供歌舞伎はこうした町人の文化と彼らの財力、心意気、そして職人たちの技によって始まった(曳山子供歌舞伎事務局)。豪華な曳山は、京都の祇園祭や近江長浜の曵山祭への憧憬(しょうけい)もあって、十分な経済力と技術力を持つ町衆が作り上げたという。
舞台の裏方は五人衆、若連中(わかれんじゅう)と呼ばれる大人の世話人たちが一切を取り仕切り、パンフレットの作成や衣装、道具の準備、舞台の設定や上演中のサポートに駆け回った。近江長浜、武蔵秩父と共に歴史ある子供歌舞伎は、こうした“町衆”の支えもあって守り伝えられている。