認知症は病気ではなく老耄(ろうもう)の表れ
東京大学名誉教授の大井玄氏が講演
東京都医学研究所が東京都千代田区の一橋講堂で開いた都民講座で。83歳になって、なお現役で臨床医を続けている東京大学名誉教授の大井玄氏は、これまでの臨床体験や研究を通じて「認知症は病気ではない、老耄(ろうもう)の表れである」と語った。
尊厳守り余裕保つ“沖縄時間”
年齢を重ねるごとに、最近の記憶が薄れる、時間や場所を忘れ、約束が守れない、物を置いた場所を忘れる、何をしようとしたのか忘れる、などの社会的影響が出ることを指摘しながら、老耄の意味を考えることから講演を始めた。
沖縄で80すぎの老齢の男の人が検診の場に来た。重度の認知症と診断したが、付き添いの20代の女性に対しても、病院関係者に対しても非常に堂々とした態度を取っている。話を聞くと、最近、介護のために、玄関をリフォームした。そしたら、玄関で「ここは、オレの家じゃない」と入るのを拒否、いつも、勝手口から出入りしているという。
東京都の100歳以上の高齢者調査で「主観的な幸せ」を調べると、高い数字が出たが、頭も体も完全に健康だという人は2%しかいなかった。
なぜ、沖縄において、認知症でも、満足して「堂々とした」生活ができるのか、大井氏は「薬の投与による医学的な対応よりも、介護師などのケアが大切だと思っている」という。沖縄は時間の感覚が非常にのんびりしている。また、年嵩(としかさ)の人に対しての言葉遣いが丁寧で尊厳とか、誇りを大切にしてあげている。
認知症の症状が出ている高齢者は痛みを感じにくく、病院に入っても、痛みを訴えない。痛みに対する処置に薬を使う量が少ない。がん発症の部位によって異なるが。鎮痛剤の使用割合も少ない。「大腸がんは、便の通りが悪くなり、腸閉塞を起こし、非常に痛くて、苦しむものだが、担当した患者は安らかな最期を迎えた。自我意識が薄れ、痛みをだんだん、感じなくなる」と大井氏は言う。自分たちは「生きる力」「生かされる力」の関係の中で生きている。
認知症の人には死の恐怖という精神的苦痛、痛みという身体的苦痛を経験せずに現世から涅槃(ねはん)に移ることができる。これが、「老耄」。老耄の肉親が教えてくれることがある。その衰え、変化していく姿を通じて実体的自我の無いことを教えてくれている。その介護してもらう姿を通じて、さまざまな縁により生かされると同時に諸行無常の理(ことわり)を納得させてくれる。私にとっての「師」であることを身を呈して教えてくれる。
人間関係を良くして、ケアを受けることを、自分の両親や祖父や祖母のケアを通じて学んでいく。「私は看取(みと)り医だから、患者に大往生させてあげることを考えている。孫やひ孫を連れて来て、亡くなっていくところを見守ってあげる。学ばせるようにしてあげることが重要と思って指導している」と大井氏は講演を締めくくった。