子供たちの豊かな成長支える

コミュニティ・スクールと地方創生

岩国市会議員 前野弘明氏に聞く

 学校と保護者や地域の人々がともに知恵を出し合って、子供たちの豊かな成長を育むコミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)。現在でこそ、コミュニティ・スクールは現場の教育を支える縁の下の力持ちとして全国的に認知されているが、そもそも「地域力を活用した教育」に取り組んだのは岩国からだった。その現場で尽力した岩国市議会議員の前野弘明氏にインタビューした。(聞き手=池永達夫)

地域と家庭の絆で牽引/ものや金以上に人の輪
今も続く子供見回り隊/身の上相談、親身に考える

今では文科省が全国で推進しているコミュニティ・スクールだが、もともとは岩国から始まった?

前野弘明

 まえの ひろあき 昭和28年4月29日、岩国市由宇町中村生まれ。広島大学理学部物理学科卒、高村正彦衆議院議員秘書。平成3年、岩国市会議員初当選。議会では建設常任委員長、経済常任委員長、(副議長)歴任。岩国市子供会育成連合会岩国支部副支部長、岩国市青少年育成市民会議通津地区幹事、面高会(つづみ塾・アドバンスつづみ塾・通津しのぶえ会)事務局長、山口県スノーケリング協会副会長。座右の銘「誠実貫徹」。家族は妻と子供5人+猫のチェリー1匹。

 岩国で地域の人が学校でボランティアをやろうとしたことが契機となった。

 家庭学習が習慣化できていない子供やいわゆる落ちこぼれといわれるような子供たちを、何とか授業についていけるように、地域の人々がサポートできないだろうかということが発端だ。

 それで、校長先生と一緒に協議した。校長は「分かりました。そういう子どもたちを学校でピックアップしますから、地域のボランティアを受け入れる様にしましょう」と積極的に動いてくれたことで、岩国からコミュニティ・スクールが動き始めた。

 その時、こちらとしては十分なことはできないかもしれないけれど、少なくとも地域の人が子供たちを大事にしているし、その信号だけは送り続けるつもりだった。

 どこに行っても故郷のことを思ったら、おじさんおばさんにはお世話になったなーと思えるような関係を作り出せたらいい。そういう思いからスタートした。

どこにでもありそうな話だが?

 全国的にそうしたものはいろいろある。塾の先生を雇って、学校の放課後、教室を使った塾外の講座を開いているところもある。

 それに比べ、ここは全くボランティアで、学校の先生だった人でもできるし、企業経営者や特殊な経験をもった人が手伝ってくれる。

 地域のマンパワーを引き出して住民としっくりいっているのは、岩国が初めてのケースだ。

コミュニティスクールで目指すべきものは何か?

 私が目指したコミュニティスクールの姿は、昔の寺子屋のようなものだ。地域の人が代わる代わる子供を見ながら、読み書きそろばんを教えていた時代があった。そうやって地域の人が教育を支えた。今、地方創生の時代といわれるが、「自助、共助、公助」の哲学からすると「自助、共助」というのは家庭と地域の関係となる。それをきちっとやることで、始めて公助が生きてくる。

 地域と家庭でしっかり子供と関わり、その上で専門家としての教育者がいろんな勉強をするにはどうしたらいいか導いてくれる。学校がその役割を果たせる。

 江戸時代にあった理想的な姿をもう一度、現代に合わせて作ったのがコミュニティ・スクールだ。

そうするとモデルは寺子屋?

 地域と家庭の絆があった時代の寺子屋が基本となる。地域と家庭がしっくり行ける状態があってこそのコミュニティ・スクールだ。

江戸時代には武士階級のエリート教育としての藩校と大衆教育としての寺子屋があった。

 専門性に力点をおいたものとして面高会というのを作った。この面高会の中に、つづみ塾やアドバンス塾というのがあって、夏休みや冬休みなどに、エンジンを解体して組み立てるとか、コンピューターを自分で作ってみようとか、スノーケリングで遊んでみようとかといったことを企画してきた。

 維新の時、松下村塾というのは私塾だった。結構、すごい力があった。この岩国でも東沢瀉(たくしゃ)がやっていた沢瀉塾があった。

 それは大人も子供も、通っていたもので、何かを解決するために、討論したり熟議する場でもあった。

面高のそもそもの意味は?

 毛利元就が使い始めた家紋が抱き沢瀉(おもだか)だった。陽明学者の東先生が保津村沢瀉に開塾した際に、沢瀉(オモダカ)が好きだったので自分の名前を沢瀉とし「たくしゃ」と読ませた。水田や沼地に生え、葉脈が高く隆起していることから面高(おもだか)と呼ばれたが、葉は鏃(やじり)のような形をしている。

 そこで、発会の時、現代にわかりやすいように沢瀉⇒オモダカ⇒面高とさせていただいた。

 「西の松陰、東の沢瀉」と言われる沢瀉だが、維新を支えて、今の日本を作り上げた。特に東沢瀉の系列は、維新後の人たちをたくさん育てた。全盛期には五つの学舎が立ち並び、たくさんの学生が寄宿して学んだ。松陰の兄・杉梅太郎(民治)も教えを請うたと伝えられる。

松陰は29歳で散ったが、沢瀉は60歳の人生を全うした。望まれても政治の表舞台には立とうとせず、新しい時代を担う人材の育成に尽くし縁の下の力持ちに徹した。陽明学者にとっては大事な人だし、近代日本にも大事な人だ。

岩国には都会にはないローカルパワーを感じる。

 広島の子どもが外国人に拉致されて殺されたことがあったが、そのすぐあと、民生委員の人たちを中心に集まってもらって見回り隊を組織した。それで、子供たちの登校下校時に道筋の大事なところに立って見守ってもらうようにした。

 その時「子供たちに声掛けしてください。ボランティアの帽子をかぶってやってください。見回り隊というのは、子供たちが地域の子どもと自覚したところで止めていただいて結構です」と申し上げた。しかし、そのうち見回り隊は子供たちについて学校までいくようになった。

 最初は、そのうち畑を耕しながら見守ることでもいいと思っていたが、何年も経つのに誰も止めない。聞くと毎日、会っている子供が身の上相談をしてくれる。話を受けた方は、親身になって考えるから人間関係ができる。それで止めたくないとなる。

 今は子供たちとの対話を楽しむということで続いている。

それは理想的な地方力の表れだ。

 こうしたことこそが町づくりの基本となる。子供たちが健やかに育ち、大人も育つ環境がある。ものや金がある以上に、人間の輪があり絆があるというのが大事だ。

 だからコミュニティ・スクールの基本は、この辺にあるべきだ。この肝を忘れたらおかしくなる。

 また、人にはそれぞれいろんな趣味があるだろうということで、それを深堀りするつづみ塾の反響は結構、早かった。

 全国の退職公務員会の会報につづみ塾のことが掲載され、全国校長会でぜひともみんなこれに習って、地域貢献しようという話が伝わっていった。

 それでも、なかなか、岩国と同じようにすることは難しかった。

 学校教育に余り手出しするなといった先生方の意識もあって、学校の敷居が高かったからだ。

 私の個人的経験からすると、昔はあまり落ちこぼれがなかった。昔は宿直の先生のところに集まって、飲み会を兼ねて、親や地域の人たちが集まって、話をするようなことがあった。だから学校を中心にいろいろ活動をやっていた歴史がある。

 それをもう一度、とり戻せるようにしようというのがコミュニティスクールだ。

 結局、平成17年に文科省が旗振り役を果たして、地域との関係を作りながら子供たちをすこやかに育てようというコミュニティ・スクール制度が作られた。