来館者に感動与える西田幾多郎の家族の有り様
世界的な哲学者・西田幾多郎(1870~1945)を献身的に支えた妻・寿美(ことみ)(1875~1925)を紹介する企画展「枕辺の野花―西田幾多郎の妻・寿美(ことみ)―」が、石川県かほく市の西田幾多郎記念哲学館で開催されている。寿美は41歳で病床に臥しながらも、死の間際まで夫や子供たちを支え続けた。その姿はこれまでほとんど注目されてこなかったが、同展では家族との心温まるエピソードを交えながら、直筆の書や図、関連本などを展示し、来館者の深い感動を呼んでいる。(日下一彦)
妻・寿美の企画展 石川県かほく市の記念哲学館で開催
同館が寿美(旧姓得田)を取り上げるのは初めてで、幾多郎の人生の良き同伴者だった。2人はそれぞれの母親が姉妹でいとこ同士。幾多郎より5歳年下の仲の良い幼馴染(なじ)みだった。金沢出身で父・耕(たがやす)と母・貞の間で、5人姉弟の長女に生まれた。耕は幾多郎とは年齢が一回りほどしか違わず、幾多郎にとって兄のような存在だった。彼が生涯の師と仰いだ旧制四校の北條時敬とは、耕を通じて出会っている。
耕の実家は松任(現在の白山市)で代々酒を醸造していた。長男だったが家業を弟に譲り、金沢の師範学校で絵画を習い、さらに2年間東京に出て洋画を学び、その後、金沢で画学の教員をしていた。芸術的な資質は寿美に受け継がれたようで、彼女が描いた「北陸道地図」は、福井から新潟まで色鉛筆を使って正確に製図されている。細かい手作業が得意だったようで、着物の見立ても良く、裁縫や料理にも長(た)けていた。
また、国文学が好きで、学生時代には幾多郎から勉強を教わった。そこで心が通い合い、「自然な形で夫婦になったのでは」と同館学芸員の山名田沙智子さんは見ている。2人は明治28年(1895)5月、幾多郎25歳、寿美21歳で結婚。この時、幾多郎は能登の七尾にあった尋常中学の分校で教諭をしており、寿美も同地の小学校の訓導に就いていた。結婚の翌年には長女、続いて長男に恵まれるが、その矢先、2人に大きな試練が襲う。
幾多郎の父得登(やすのり)が事業に行き詰まり、得田家と金銭問題が起きた。両家の板挟みになった寿美は家出し、それが元で2人は得登によって離縁させられてしまう。家長の権限が大きかった時代のこと、父の命に従わざるを得なかった。離縁の翌年、父が亡くなり復縁することができた。
41歳で病床に臥しながらも死の間際まで夫・子供を支える
こんな複雑な事情があっても、寿美は不平を言わず、次々と生まれる子供たちを育て、家を守り、常に献身的に幾多郎の学究生活を支えた。ちなみに2人には2男6女が生まれるが、長男が23歳で他界し、夭逝(ようせい)する女児もあって2人は悲哀に見舞われている。試練はさらに続き、寿美を病魔が襲った。
大正8年(1919)9月、44歳の折、脳出血で倒れたのだった。寝たきりになってしまうが、会話はできた。床にあってもこれまで通り、2人には会話が途絶えることはなかった。タイトルにある「枕辺の野花」とは、寿美が慈しんだ野の花を幾多郎が摘んで妻を和ませたこと。49歳で亡くなるまでそんな日常が続いた。最後まで愛読した「源氏物語」も展示されている。
山名田さんは「寿美は単なる主婦かと思っていましたが、経歴を見ると師範学校を出て小学校の辞令が残り、しかも次々と子供を出産しています。西田家を支えてきたのが寿美だったことが展示を通して分かるのではないでしょうか」と話している。
同展は9月26日(日)まで、月曜日休館、観覧料は一般300円、65歳以上200円、高校生以下無料。問い合わせ=076(283)6600。コロナ対策のため、会場ではマスク着用、手指の消毒、検温がある。