資料が語る、勉学に励む若き日の西田幾多郎の姿

生誕150周年記念して、企画展「発見!!幾多郎ノート」

資料が語る、勉学に励む若き日の西田幾多郎の姿

学生時代の西田幾多郎

 『善の研究』で知られる世界的な哲学者・西田幾多郎(1870~1945)=石川県かほく市出身=の生誕150年を記念する企画展「発見!!幾多郎ノート」が、かほく市にある西田幾多郎記念哲学館で開催されている。展示されているのは2015年10月、遺族の元で見つかった直筆のノートや紙資料を復刻したもので、その一部が本物そっくりのレプリカで公開されている。関係者によると、西田の全集が発刊された後の未公開資料ばかりで、全集には含まれていない記述も見られ、懸命に勉強し、研究に勤(いそ)しんだ若き日の幾多郎の姿が見えてくるという。(日下一彦)


石川県かほく市にある「西田幾多郎記念哲学館」にて開催

遺族の元で見つかった未公開の直筆ノート50冊などを修復して展示

 新たに見つかったのは12個の紙包みで、開いてみると直筆のノート50冊と紙資料およそ250部だった。ノートの半数は代表作『善の研究』の原稿を執筆するなど、自身の哲学を準備した金沢時代のものと考えられている。ちなみに幾多郎は、1891年に東京に出て帝国大学選科に入学、3年間東京で過ごし、同94年に帝国大学文科大学哲学科を修了、金沢へ戻り、1909年までの15年間は主に金沢の第四高等学校(四高)の講師として過ごした。その後、1年間、学習院教授、10年から豊山大学講師、京都帝国大学文科大学助教授として赴任、教鞭(きょうべん)を執っている。

 ノートは美しいマーブル紙の表紙やシンプルな大学ノート、その他のさまざまなノートで、そこには日本語だけでなく、英語、ドイツ語などをびっしりと書いていた。内容は講義ノート、読書・研究ノート、さらに学生として帝国大学で講義を受けたノートもあった。これらのノートは西田が懸命に勉強し、研究する若き日の姿を感じさせる。

 ただし、状態は最悪で、湿気を帯びてカビが甘い香りを放ち、ナメクジや虫が発生していた。このままでは損壊は時間の問題だったため、同館では修復と翻刻のプロジェクトを立ち上げ、対処に当たった。

資料が語る、勉学に励む若き日の西田幾多郎の姿

復刻されたノートのレプリカを展示している=石川県かほく市の西田幾多郎記念哲学館

 紙資料の復元には定評のある奈良文化財研究所の「真空凍結」という特殊な乾燥処理を施して湿気を取り除き、べったりと固着していたページを開いた。他にも専門業者が加わり、紙一枚一枚を丁寧に剥がしていく繊細な作業が3年近く続き、ノートを修復した。

 和紙に墨書きの資料と違い、洋紙にインクの資料は、インクが流れて判読しにくい文字が多かったが、これには京都大学と金沢大学の翻刻チームが取り組んだ。また、資料の精巧なレプリカを作成した。特に、ノートの使途とその重要性に鑑みて、「倫理学講義ノート」と「宗教学講義ノート」のそれぞれ4冊を優先的に翻刻している。

 「倫理学講義ノート」は幾多郎が京都帝国大学赴任直後に担当した「倫理学」講義のためのノートで、その内容は学生向けの講義と共に、自身が思考しながら独自の哲学を語った講義が収められている。『善の研究』では約半分が京都帝国大学へ赴任する前の四高での「倫理」講義ノートが基になっているが、西田幾多郎記念哲学館の中嶋優太専門員によれば、今回発見された同ノートは、「『善の研究』の続編とみることもできる」と解説している。

 一方、「宗教学講義ノート」は京大赴任直後に担当した講義ノートで、内容を見ると、幾多郎が多くの西洋の哲学書、学術書を参考にしながら講義を作成していたことが分かり、「思索の舞台裏が見えてきた」(同専門員)貴重な資料だ。

 また、日付を付した読書ノートには、日付と西洋のさまざまな著者から抜き書きした文章が、英語とドイツ語で書かれていた。それを見ると、引用した本の箇所を、いつ読んだかが浮き彫りになり興味深い。一例を挙げると、1907年1月11日、5歳の幽子が夭折(ようせつ)したが、その悲しみを、同様に娘を亡くしたドストエフスキーの言葉を用いて印象的に記している。

 今回の企画展について、浅見洋館長は、「西田哲学の形成を解き明かす重要な手がかりで、日本哲学史研究の新たな可能性を開く、貴重な資料です」と説明している。なお、復刻したノートは、『西田幾多郎全集別巻』として今年9月に出版予定となっている。同展は9月22日(火・祝)まで、観覧料は一般300円、65歳以上は200円、高校生以下無料。問い合わせ=電話076(283)6600。