大江・岩波裁判の誤算、訴えるべきは『鉄の暴風』
上原 正稔 (36)
集団自決訴訟「大江・岩波」裁判は『鉄の暴風』と沖縄タイムスも被告として訴えるべきだったが、原告側の不手際で「大江・岩波」の勝利に終わった。
裁判の被告・岩波書店の2008年臨時増刊「沖縄戦と『集団自決』」も、「集団自決」の最重要文献で、宮城晴美氏が沖縄タイムスで発表したコラム「母の遺言―きり取られた自決命令」には一言も触れていない。被告に不利な証拠文献は避けるべきなのは自明のことだからだ。
宮城氏は母の遺言を発表することによって村全体を敵に回すことになり、息の根を止められてしまった。しかし、05年8月、大阪地裁に梅澤裕氏、赤松秀一氏(故赤松嘉次氏の弟)が名誉棄損で岩波書店と大江健三郎氏を提訴すると、被告・岩波は宮城氏に連絡し、彼女は岩波側の重要証人として法廷に立つことになった。そして08年、彼女は『新版・母の遺したもの』を出版し、そこでは「梅澤氏はやはり、集団自決命令を出していた」と全く逆の結論を出し、彼女自身は息を吹き返したのだ。
岩波の弁護団が仕組んだのが、座間味村助役で兵事主任であった故宮里盛秀氏の妹・宮平春子氏の「軍からの命令で、敵が上陸してきたから玉砕するように兄から言われた。国の命令だから潔く一緒に自決しましょう。敵の手に捕らわれるよりは自決した方がいい」と本人から直接聞かされたと陳述書を出させたのだ。しかしながら、兵事主任の役割については触れていない。兵事主任とは軍と村民の重要な連絡係であると同時に、数十人の村の防衛隊と同じように重装備をして、軍人と全く変わらぬ立場にあったことだ。防衛隊とは正式には防衛召集兵と呼ばれ、退役軍人や村民の若者たちからなり、在庫の武器弾薬を手に入れることができた。このことを裁判では誰も証言しなかったのだ。
「集団自決」というそれまで誰も使わなかった言葉を、『鉄の暴風』で伊佐(後に大田)良博氏が「玉砕」の代わりに創作し、そこで初めて、「赤松嘉次戦隊長と梅澤裕戦隊長が『集団自決』を命令した」と発表した。原告側の弁護団は、『鉄の暴風』と沖縄タイムスを被告として訴えれば楽勝したはずだったが、そうはしなかった。なぜなら、岩波という大出版社と大江健三郎というノーベル文学賞受賞者の『沖縄ノート』で十分だと踏んだからだ。
この裁判が被告側の「勝利」に終わった理由は『沖縄ノート』には赤松氏や梅澤氏の名前はなく、ほんの数行『鉄の暴風』の記述を引用したと思われる部分が示されているだけだからだ。
しかしながら、歴史はまた皮肉にも反転する。
筆者は06年から琉球新報編集長の嘉数武氏から依頼を受けて、「沖縄戦(の原稿)を数年間、自由に発表してくれ」と言われ、毎年タイトルを変えて執筆することにした。そして、琉球新報との「表現の自由」をめぐるすさまじい戦争が始まったのだ。