安田純平事件から、後続ジャーナリストへの助言

山田 寛

 シリア武装勢力から解放された安田純平氏を、左派メディアは英雄の様に扱い、ネトウヨは「人質プロ」と酷評した。どちらでもなかろう。かつて小突入取材を経験した私は、「第2、第3の安田純平氏」の可能性を持つ後輩達に次の様に助言したい。

 私は1970年代のカンボジア内戦で、解放戦線支配地域に2日間潜入した。解放戦線は後のポル・ポト派が中核で、秘密に包まれ、記者が来たら殺すと言われていた。読売の南ベトナム(当時)駐在記者だった私は、同内戦応援取材を命じられ、ぜひ解放区入りしたいとの思いに取りつかれた。妻と子(5歳と2歳)のことも忘れた。首都で1カ月手づるを探した私に、何とカンボジア首相付き青年将校が「友人の解放戦線軍地方司令官」宛紹介状を書いてくれた。複雑な敵味方関係だが、信頼できる仲介者だった。解放区で沢山取材して無事帰った。(その後、解放区長期取材を試みた日本人記者と写真家は殺された)

 思えば若気の至り、いや他人がしない取材をしたい「ジャーナリスト気」の至りだった。

 フリーの安田氏は一層そうだったろう。ジャーナリスト気は認められてほしい。その上で後輩に言いたい。

 <国と世界の安全、利益に負の影響を及ぼさない様努めること。安田氏解放がカタールとトルコのおかげなら、両国に借りを作った。テロ組織に利益が与えられたなら、世界の安全にマイナスとなる。04年4月、戦火のイラクで武装勢力に1週間拘束された日本人3人の家族は、武装勢力の要求「自衛隊撤退」を拒む日本政府を上から目線で猛非難し、批判された。>

 <「自己責任で行く。政府は邪魔するな」とたんかを切って行き、強制されてネット映像で助けを求めた格好悪さは、強く感じてほしい。>

 <他人を危険にさらさない。96年の在ペルー日本大使公邸占拠事件では、左翼ゲリラが人質約100人を監禁中、民放チームが公邸に突入取材を企て追い返された。人質の安全を無視したと非難され、社長が謝罪。格好悪かった。>

 <確実な手づるや案内者を得る。安田氏は、紹介されたシリア人ガイドが手筈(てはず)を整えるのを国境で待っていて別のシリア人2人組に誘われ、ついて行った。「凡ミス」と言うが、焦りから最重要部分で大ミスを犯した。>

 <自省も込めて言うと、家族の辛苦も忘れまい。安田氏の母は鶴1万羽を折って祈り続けた。先述の3人の家族も必死だったのだ。私にとって印象深かったのは、04年5月にイラクで殺された映像ジャーナリスト、橋田信介氏の幸子夫人。後に、私の勤める大学での講演会に招いた時、「夫が殺されず、人質になっていたらどうしたか」と尋ねた。夫人は答えた。「モハマド少年を取引に使い、全力で救出に努めたでしょう」。少年は戦禍で目を負傷し、橋田氏が死の直前、日本で治療を受けさせようと奔走、夫人が来日を実現させた。大胆過ぎる答えだったが、突撃ジャーナリストの妻の強い思いに感動した。>

 グテーレス国連事務総長は先日、「最近10年間で1000人以上のジャーナリストが取材中に殺された。ジャーナリスト活動を護(まも)るよう」呼びかけた。日本では他国より自己責任を問う声が強い。虎穴に入るなの“極楽平和トンボ”ムードも土台にあるのだろう。

 ネット時代。記者のサラリーマン化でジャーナリスト気が減少し、「第2、第3」が出なくなれば万々歳ではあるまい。

 たんかは切らず、絶対焦らず、他に累を及ぼさず、謙虚に、格好悪くなく、家族も忘れず、頑張ってほしいと思う。

(元嘉悦大学教授)