朴大統領弾劾 退陣圧力、審理に影響も
李東馥氏 元韓国自民連議員(上)
国政介入事件の原因を改めて考えると。

イ・ドンボク 1937年生まれ。ソウル大学中退。韓国日報記者を経て70年代、中央情報部(KCIA)で主に南北会談関係を担当。その後、サムスン航空産業副社長など財閥企業勤務。96年に自由民主連合所属の国会議員に。明智大学客員教授を経て現在、社団法人・一千万離散家族委員会常任顧問。 1937年生まれ。ソウル大学中退。韓国日報記者を経て70年代、中央情報部(KCIA)で主に南北会談関係を担当。その後、サムスン航空産業副社長など財閥企業勤務。96年に自由民主連合所属の国会議員に。明智大学客員教授を経て現在、社団法人・一千万離散家族委員会常任顧問。
やはり朴槿恵という政治家が抱えていた問題が一番大きいだろう。朴槿恵氏がフランス留学中だった1974年に母、陸英修女史が暗殺され、ファーストレディー役を果たすようになったが、その頃、特殊な才能を発揮し新興宗教を立ち上げた崔太敏という人物が接近してきた。中央情報部(KCIA)がこれを問題視して朴正煕大統領に何度も報告し、この問題をめぐり朴大統領の前でKCIAが検察、崔太敏氏が被告、朴槿恵氏が弁護人の立場になっていわゆる「御前裁判」までやった。ところが、朴槿恵氏が崔氏をかばい、泣いて大騒ぎするので結論を出せず、そのままうやむやになったという。
こうしたことがあって朴槿恵氏と崔氏一家の間にはあたかも宗教迫害を受ける者たちが共有する精神的連帯感のようなものが生じ、これに対し朴正煕大統領やKCIAなどは加害者となって両者の間に対立関係が成立していったようだ。70年代後半、朴正煕大統領はこの問題で精神的にかなり参っていたようだ。
朴正煕大統領が暗殺された後も朴槿恵氏と崔一家との関係は続き、朴氏は崔一家の言うことばかり信じるようになっていったと聞く。
朴槿恵氏が政界入りした98年以降もその関係は続いたのか。
94年に崔太敏氏が死去した後は、崔順実、鄭ユンフェという娘夫婦が代わりにその位置に立ち、関係は長く続いた。朴氏は政治家になると、意識的に父に近かった人たちを遠ざけ、政策面でも父の路線とは一線を画すようになっていった。
国会で朴大統領に対する弾劾訴追案が可決され審理が始まった。その行方はどうなるだろうか。
憲法裁判所が180日以内に審理を終えることになっているが、弾劾を主導した野党が感情的になり過ぎたのか訴追案に13項目もの違憲・違法事項を盛り込んだため、一つ一つを審理するのに時間がかかり、間に合うか不透明だ。また同時並行で始まった特別検察官による捜査資料については、憲法裁はこれを閲覧できないことになっている。憲法裁の独自調査で証拠をどこまで確保できるか疑問だ。
さらに9人いる裁判官のうち所長が今月末で任期を終え、別の1人も3月に退官する予定だ。裁判官9人のうち7人以上が出席し、そのうち6人以上が賛成しなければ弾劾訴追案は棄却される。判断が難しいと考えて欠席する裁判官が出てくることだって考えられる。
審理が行われる期間、ろうそくデモを中心に弾劾支持の世論が広まって半ば朴大統領退陣を求める世論の圧力に屈する格好で迅速に審理を終結させるという可能性もある。一方、太極旗(韓国の国旗)を持って弾劾に反対し朴大統領を支えようという世論も少しずつではあるが広がっている。いずれせよ予断を許さない状況がしばらく続きそうだ。
(聞き手=ソウル・上田勇実)





