ドイツにとっての5月8日とは
日本大学名誉教授 小林 宏晨
記念日か、国民の祝祭日か
「解放の日」と宣言した大統領
ドイツでは2020年の現在においても5月8日を終戦記念日に止めおくか、あるいは国民の祝祭日とすべきかについて争いがある。あるいはこの日を「解放の日」の記念日と位置付けることには抵抗がない。その背景について検討したい。
ナチスによる支配終焉
1945年5月8日のドイツの降伏は恐るべきナチスの支配の終焉(しゅうえん)、全体主義的独裁の終わり、従って、ドイツの解放を意味したことは事実である。この日が恐るべき戦争の終わり、そして恐るべきナチスの犯罪の終わりを意味したことも事実である。
とりわけこの日、数百万のユダヤ人殺戮(さつりく)の終焉ばかりか、いまだ強制収容所に留め置かれた人々の解放も意味した。またこの日がドイツの軍事攻撃の対象となった諸国民の解放も意味した。従ってこの日を国民の記念日とすることは正当化される。しかしこの日を祝祭日とすることには問題がある。何故(なぜ)か。
この日がドイツ人の深い屈辱と結び付いていることは事実である。ドイツ国家は崩壊し、ドイツ全土は占領され、ドイツはその主権を失った。ドイツはその領土の4分の1を失い、しかも数百万のドイツ人が追放された。しかもこの戦争によってドイツは、40年以上にわたって二分された。この事実を知った者がこの日の祝祭日に賛成できないことは理解できる。
ドイツ連邦大統領に期待される任務は、国を代表し、勲章を授与し、格調の高い講演を行うことだ。期待されていない任務は、政治の方向を具体的に共同決定することだ。まさにこの期待されていないことをフォン・ワイツゼッカーは唯一の講演をもって実行したのである。
ドイツ国防軍の元将校フォン・ワイツゼッカーは85年5月8日、ドイツ連邦議会で格調の高い歴史的講演を行った。いわく、ドイツは無条件降伏をもって第2次世界大戦に敗北した。この日は、連合諸国にとって勝利の祝祭日となった。同時にドイツにとっては、敗北の日となった。
ヒトラー政権が意図し、かつ実行した全面戦争は全面敗北をもたらした。降伏にはドイツの占領と分割、東方領土の分離、数百万人の追放と難民の発生が続いた。
大統領は、この問題に勇気をもって直接回答を与えた。つまり彼は5月8日を「解放の日」と宣言したのだ。しかも彼はなにゆえにこの表示が正しいかについて根拠付ける。
いわく、我々は、戦争の終わりの中の避難、追放および不自由の原因を認めてはならない。原因は、むしろその始まりに、しかも戦争に導いた暴力支配の始まりにあるのだ。しかも大統領は「大量殺戮については何も知らなかった」との主張を否定し、「目と耳を開けて知ろうとする者は、強制移住用の列車が通るのが分かるはずだ」と述べる。
さらに大統領は、85年5月に、ナチスと失敗に帰した市民社会が共同責任を有した犠牲者を数え上げる。600万人を超えるユダヤ人、ソ連人、ポーランド人等々がこれである。しかも終戦後40年時点では、住民の圧倒的多数が、未成年か、あるいはいまだ生まれてさえいなかった。彼らは、自らの責任を告白することさえできない。
これに回答して大統領は、「彼らは、犯さなかった行為に対する責任を自らの責任として告白できない。彼らの祖先は彼らに重い遺産を残した。責任のあるなし、老若にかかわらず、我々すべては、過去を受け入れなければならない」と述べる。さらに「過去に目をつぶる者は、現在に対して盲目である。若者たちは、当時犯されたことに対する責任はない。しかし彼らは、そこから歴史となったことに対する責任がある」と。
コール氏も同様の表現
なお45年5月8日を「解放の日」と述べた人は、フォン・ワイツゼッカーだけではない。ヘルムート・コール・ドイツ連邦首相も85年4月1日のベルゲン・ベルゼン解放記念日に「45年5月8日のナチス独裁の崩壊がドイツに対する解放の日」と述べた。これに対し東ドイツ(DDR)ではすでに早くから5月8日にソ連赤軍による東ドイツの「解放」を祝っている。
これまでの検討から導き出される結論は、論議の継続である。実は「解放の日」という位置付けそのものが大きな進歩と見做(みな)される。あとはこれに加えて「祝祭日」とまですべき必要性がどこにあるのか筆者は知らない。
(こばやし・ひろあき)