領土守る気概示したサッチャー英首相
拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久
戦時内閣立ち上げ総力戦
占領されたフォークランド奪還
日本の領土でありながら半世紀以上にわたってロシアと韓国に不法占拠されている国土がある。北方領土と竹島だ。いずれも戦後のどさくさまぎれに占領されたものである。
ここで北方領土の定義を詳しくは説明しないが、国後島・択捉島・色丹島・歯舞群島の4島は歴史的に日本固有の領土である。加えて、昭和26(1951)年9月、日本はサンフランシスコ講和条約に署名し、主権を回復し独立を果たした際、千島列島と南樺太の「権利、権原、請求権」を放棄した。だが、これらの地域が最終的にどこの国に帰属するかについては何も定められていない。ロシア(旧ソ連)が一方的に自国の領土に組み入れ不法占拠を続けているのであり、千島列島と南樺太についても領有権を日本は主張することができる。
尖閣諸島支配狙う中国
竹島も歴史的に日本固有の領土であるにもかかわらず、日本が主権を回復する3カ月前に韓国大統領の李承晩が火事場泥棒のごとく「李承晩ライン」を一方的に公海上に引いて、領有を宣言した。李承晩ラインについては、日本だけでなく米国、英国、中華民国も韓国に抗議したが、韓国は聞く耳を持たなかった。
日本が実効支配している尖閣諸島の接続水域では、中国公船(海警局所属)が68日連続で確認されている(20日時点)。中国は既成事実化するのが得意な国であり、日本政府の「遺憾の意」だけの抗議では、気付いた時には尖閣諸島が中国の支配下になりかねない状態だ。
領土問題は話し合いだけの交渉では解決しない。英国のフォークランド紛争での迅速な行動は、領土問題を解決する上で、多くの貴重な教訓を残してくれている。
英国本土から約1万3000㌔の距離にある英領フォークランド諸島は、1833年から英国の直轄植民地だった。同諸島は、英国の南大西洋における戦略的拠点として非常に重要な位置を占めていた。なぜならパナマ運河が閉鎖された場合、ホーン岬周りのシーレンを維持するための補給基地となるからだ。
アルゼンチン本土からは約640㌔の距離にあり、アルゼンチンも以前からフォークランド諸島の領有権を主張していた。アルゼンチン軍は1982年4月2日、突如、フォークランド諸島を占領する。当時のアルゼンチンは軍事政権の下で、極度のインフレと失業により国民生活は圧迫されていた。そこで軍事政権は反体制派の不満の矛先をかわす目的で、フォークランド諸島の領有権問題を利用したのである。
それに対して英国は、直ちにサッチャー首相を議長とする少数大臣による戦時内閣を立ち上げた。最高首脳陣による意思決定の下で、外交・軍事・経済の各分野の調整を行い、軍事行動の指針を決定する。英国はギリギリまでアルゼンチンと外交交渉を行うも、アルゼンチンが平和的解決に応じないため、4月25日、ついに軍事衝突に発展する。英海軍は2隻の空母を含む100隻の艦船、兵2万8000人を派遣。商船など民間船を短期間で多数徴用し、国家総力戦で戦った。
一方のアルゼンチンは、占領したフォークランド諸島を守り抜くという強い意志もなく、陸・海・空軍はバラバラに戦ったため、各個に撃破され、次第に戦意を喪失していく。その結果、アルゼンチン軍は航空攻撃により英海軍艦艇に損害を与えたものの、英軍の逆上陸を阻止できず、6月14日に降伏し、フォークランド紛争は終結した。
非常時対処計画作り演習
当時、英国はフォークランド諸島、ジブラルタル、香港の3カ所を植民地として経営していた。「政府・軍・民間」の三者が一体となって、それぞれの有事における「非常時対処計画」を作成し、軍事行動の中心となる海軍が海軍大学で毎年のように図上演習を実施していた。このことが英国の迅速な軍事行動となり、フォークランド諸島の奪還に繋(つな)がったといわれている。
日本には英国のような「非常時対処計画」もなければ、政府・軍(自衛隊)・民間の三者が一体となっての戦時・危機管理の本格的な訓練は、今まで一度も実施されたことがない。日本は、フォークランド紛争から学ぶべき教訓があるはずだ。決して戦争を奨励しているわけではないが、国家は戦う覚悟と意志を持たなければ、いざというときに守るべきものも守れなくなる。それを教えてくれたのが、フォークランド紛争なのである。
(はまぐち・かずひさ)