ソ連の北海道占領計画と樋口中将の決断

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

侵攻ソ連軍への反撃命令
日本軍、占守島で頑強に抵抗

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 近年、樋口季一郎陸軍中将の功績を後世に伝える運動が起きている。9月には、北海道古民家再生協会が中心となり、石狩市に樋口中将の記念館がオープンする。写真や資料などが展示される予定だ。今春、孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授が遺稿集『樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』(勉誠出版)を刊行した。

 樋口中将はハルピン特務機関長時代の昭和13(1938)年3月、ナチスドイツの迫害から満洲国に逃れてきたユダヤ人の命を救っている。多くのユダヤ人を救った杉原千畝の「命のビザ」の話は有名だが、樋口中将は杉原よりも2年前にユダヤ人を助けているのだ。さらに、樋口中将の決断が、ソ連の攻撃から北海道を守ったということをほとんどの日本人は知らない。

 以下、ソ連による北海道占領計画と、樋口中将の決断の意義について述べていきたい。

全島占領目論んだソ連

 昭和20年2月4日から11日まで、クリミヤ半島のヤルタで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相による3カ国首脳会談が開かれた。会談では、ソ連への千島列島の譲渡と南樺太の返還を条件に、ルーズベルトはスターリンに対日参戦を促した。これが「ヤルタ密約」と言われるものだ。

 米国のトルーマン大統領は8月15日、スターリンに対し、日本軍の降伏地域を規定した「一般命令第1号」を送付した。そこには「ヤルタ密約」とは違って、ソ連軍の占領地域は、満州と北緯38度以北の朝鮮となっており、千島列島は含まれていなかった。「一般命令第1号」の内容を不満としたスターリンは、8月16日、ただちにトルーマンに次のような要求をする。

 一、日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島列島全土を含めること。これはヤルタ会談における3カ国の決定により、ソ連の所有に移管されるべきものである。

 二、日本軍がソ連軍に明け渡す地域には北海道の半分を含むこと。北海道の南北を二分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌までを通る線(スターリン・ライン)とする。なおこの両市は北半分に入るものとする。

 あろうことかスターリンは、北方4島を含む千島列島全島の領有を挙げたのみか、北海道の半分を要求してきたのである。北海道の占領は、日本のシベリア出兵に対する代償であると主張した。トルーマンからは、北海道北部のソ連占領を認めないという返事が8月18日には届いていたが、スターリンはそれを無視する。

 ソ連の戦史研究所所長だったボルゴドノフ大将は、終戦直前にスターリンは極東軍最高司令官のワシレフスキー元帥に対して、「サハリン南部から北海道に3個師団の上陸部隊を出せるように準備指令を出した」と語っている。

 水間政憲氏がボルゴドノフ大将の発言を裏付ける証拠として、山形県鶴岡市のシベリア資料館で、ソ連の「北海道・北方領土占領計画書」を発見し、月刊『正論』(平成18年11月号)にその内容を発表している。これを読むと、ソ連の北海道占領計画は、北海道の半分どころか、あわよくば北海道全島の占領を目論(もくろ)んでいたことが分かる。

 千島列島最北端の占守島では、8月15日で戦争は終わったと将兵の誰もが信じていた。ところが、8月18日深夜零時過ぎ、占守島と海上14㌔の距離で対峙(たいじ)するカムチャッカ半島の尖端ロパトカ岬からソ連軍長射程砲の砲撃が開始される。

 「ソ連軍、占守島に不法侵入を開始す」という電文が、北千島方面第91師団長の堤不夾貴(ふさき)中将から札幌にある第5方面軍司令部に入る。その時、第5方面軍司令官だった樋口中将は「自衛のための戦闘」を命ずるべきか、侵攻して来るソ連軍に蹂躙(じゅうりん)されてでも、大本営の指示に従うべきか悩んだ末、反撃命令を発した。

日本分断の悲劇を防ぐ

 占守島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、北海道はソ連軍に占領され、満州や南樺太で起きた略奪、子女に対する暴行や強姦(ごうかん)が繰り返され、青年男子はシベリアに強制連行されていたであろう。北朝鮮やドイツ統合前の東ドイツのように、共産主義国家が北海道に誕生し、津軽海峡を挟んで、日本も同じ民族同士で対立していたであろうことは想像に難くない。

 樋口中将のことは、歴史の教科書に載っていないため、学校では教えられていないが、日本人として、記憶に留めておきたい軍人の一人である。

(はまぐち・かずひさ)