ソ連対日参戦75年 再び国際政治を見誤るな


 第2次大戦末期にソ連は、当時有効だった日ソ中立条約を破棄して宣戦を布告し、日本に侵攻した。戦力の多くを南方に振り向けていた日本軍は敗退を続け、多くの戦死者を出した。ソ連軍は民間人にも襲いかかり、筆舌に尽くし難い蛮行を繰り広げた。この歴史を忘れることはできない。同時に、このソ連に米英との仲介を働き掛けていた当時の日本指導部の迂闊(うかつ)さも忘れてはならない。

仲介を期待し続ける

 度重なる空襲で国土は焦土と化し、さらには広島に原爆を落とされ、日本の敗色が濃厚だった1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、機甲部隊を中心とした150万の大軍を日本の勢力圏だった満州国に侵攻させた。精強で知られていた関東軍は主力を南方戦線に引き抜かれており、なすすべもなく敗退を続けた。

 ソ連軍は南樺太・千島列島にも向かい、日本がポツダム宣言を受諾した8月15日以降も侵攻を続けた。歯舞・色丹を含む北方領土全域が占領されたのは、日本が降伏文書に調印した9月2日よりも後の9月5日だった。北方領土の不法占拠は現在も続いている。

 ソ連軍の侵攻による日本軍の死者は8万人に及ぶ。ソ連軍は満州や千島・樺太の民間人にも襲いかかり、千人単位の大虐殺や婦女子らに対する暴行、略奪など、目を覆うばかりの犯罪行為を繰り広げた。

 それだけではない。ソ連は旧日本軍人や民間人ら約60万人を国際法に違反してシベリアや中央アジア、モンゴルなどの収容所に抑留し、飢餓や酷寒の中での過酷な強制労働に従事させ約5万5000人を死に至らしめた。これらの事実は、どう言い繕っても正当化できるものではない。

 ソ連は45年4月、日本政府に日ソ中立条約の不延長を通告した。これにより同条約の失効は翌年4月となったが、ソ連はこれを無視して日本に宣戦布告した。条約違反は明白である。

 ソ連のスターリンは45年2月のヤルタ会談で対日参戦を密約しており、同年5月のドイツ降伏を受け、日本侵攻の準備を進めていた。戦況が悪化する中で視野狭窄に陥った日本の指導部はソ連の本質を見抜けず、米英との仲介をソ連に期待し続けたのだ。対日交渉でソ連は明確な態度を示さず、極東に戦力を展開する時間を稼いだ。その迂闊さの犠牲はあまりにも大きい。

 かつて日本は、当時の覇権国家であった英国と日英同盟を結び、英国の支援を受け日露戦争を勝利に導いた。しかし、第1次大戦で英国が国家存亡の危機に陥る中で、日本への不信や不満が広がり、日英同盟は解消された。その後英国は米国と連携して日本の前に立ち塞(ふさ)がり、孤立した日本は勝ち目のない戦争に突入していった。

共産中国の本質見極めよ

 米国は今、世界の覇権を握ろうとする中国共産党の野望をはっきりと見極め、対決姿勢を明確にした。日本はかつてのように国際情勢を見誤ってはならない。中国共産党の本質を見極め、自由と民主主義の理念を共有する米国の同盟国として責任ある行動を取るべきだ。